風潮が家族になる。
(澤田政廣 「蓮華」 89歳の作品)
昨日、彫刻家・澤田政廣の生命力溢れる彫像の話を聞いて、さっそく今日、熱海の澤田政廣記念美術館に行ってきた。
その作品から発する生命力、作品から感じる動きの速度、真剣勝負の迫力などいずれも圧倒的であった。とくに89歳の作品 「蓮華」 がわれわれに働きかける速度には気圧される思いすらした。澤田政廣についてはぜひまた別の機会に書いてみたい。
奇遇だが、澤田政廣は月光荘おじさんの兵蔵さんと同じ1894年生まれだ。故人となられたのも澤田政廣は1988年(93歳)であり、兵蔵さんは1990年(96歳)で、明治、大正、昭和を同世代で生きた二人であった。
澤田政廣は澤田政廣記念美術館が設立され、最後の力作 「大聖不動明王」 を仕上げ、三越でその記念展を開催すると、まもなく亡くなった。
兵蔵さんもまた同じように、そのいのちのすべてを燃やし切って亡くなるのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その事件が起こったのは、じつに兵蔵さんが95歳のときである。
兵蔵さんが大恩ある芸術家たちのために開店した月光荘は、戦前、新宿の一等地に100坪もの敷地を有するまでに大きくなったが、太平洋戦争の大空襲によって灰燼に帰し、兵蔵さんは再び裸一貫となった。
しかし兵蔵さんは、戦後、銀座に移り、わずか3坪の小さな店で月光荘を再興する。
兵蔵さんの月光荘は、画材や絵の具の開発を続け、少しづつ土地を買い増しして、芸術家たちのために再びサロン、喫茶店、ギャラリー、アトリエ、クラブを順次併設していった。
ご恩報じは現役の芸術家たちに対してだけではなかった。芸術家の卵の若者たちの面倒も見、彼ら彼女らが世に出るのを助けつづけた。
その月光荘が、90代となった兵蔵さんのあずかり知らないところで、妖女、中村曜子に食い物にされる。
中村曜子によって月光荘は膨大な借金を負い、国際スキャンダルとなる事件を引き起こし、ついに倒産するのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その種は、兵蔵さんが70代半ばのとき、月光荘の会社の経営を息子の百蔵さんに譲ったときに生じた。
所帯の大きくなった月光荘の経営は息子百蔵さんに任せ、兵蔵さん自身は月光荘ビルの一角の画材店で芸術家たちのお世話をし、画材・絵の具の開発をつづけていたのである。
百蔵さんは兵蔵さんが40歳を過ぎて生まれたので、若い青年社長のデビューであった。
中村曜子は、軍人の家に生まれ、女学校時代に陸軍士官学校の教官と結婚するが、夫が戦死した場合を見越して、まもなく生まれた娘を自分の妹として入籍したほど計算が先立つ女だった。
その後、彼女は夫と離婚し、資産家の安宅家の二代目と昵懇になり、その庇護を受けて印刷会社を経営し、学生向けアパートを所有し、娘を慶應義塾幼稚舎に通わせた。ちなみに安宅家は後に倒産する大手商社安宅産業のオーナー家である。
彼女は安宅家の二代目に対しても世間に対しても 「夫婦別れみたいなことでは具合が悪い」 と考え、周りに 「娘の父は戦死した」 と話していた。
ウィキペディアなどによると、この後に彼女の背後には錚々たる闇の大物、森下安道や小谷光浩らが関与することが指摘されている。
彼ら闇の大物は、あらゆる手段を使って資産家や利用価値のある人間を罠にはめ、食い物にするのはお手の物だ。
おれの恩師だったK会長(田中角栄から森喜朗までの歴代総理のフィクサー、故人)や、いまおれが師事しているT先生(現在、自民党系の最強のフィクサーと目される、78歳)たちが、ときに対立し、ときに利用し、ときに戦ってきた闇の実力者たちである。
中村曜子はこののち月光荘を食い潰していくが、彼女自身もまた彼ら闇の実力者たちに利用されて食い物にされていただろうことは容易に察しがつく。
そんな妖女、中村曜子の娘が通っていた慶應義塾幼稚舎~中等部に、兵蔵さんの息子の百蔵さんも通っていたのである。
そのころ中村曜子は20代から30代。彼女が娘の友だちの百蔵さんに意図して近づいたのであれば、少年の百蔵さんが彼女に憧れるように仕向けるのは簡単なことであっただろう。
やがて百蔵さんが若くして月光荘の二代目社長に就任すると、中村曜子も月光荘の経営に参画するようになる。ときに中村曜子41歳である。
なにしろ月光荘は与謝野晶子によって命名された歴史のある画材店であり、
画材に関して30件以上の特許商品を所有し、フランス以外では不可能であった絵の具の開発に世界で初めて成功し、フランスのルモンド誌から 「フランス以外の国で生まれた奇跡」 と大称賛されていた。
そして、なによりも
梅原龍三郎、
有島生馬、
岡田三郎助、
藤田嗣治、
関口俊吾、
小糸源太郎、
猪熊弦一郎、
脇田和
など日本画壇を代表する画家たちが、故人も現役もみな月光荘と親しい付き合いをしていたのである。
中村曜子やその背後の闇人脈にとって月光荘は利用価値のあるご馳走であっただろう。
中村曜子は、月光荘の経営に参加するとすぐに、銀座月光荘ビル内にあった芸術家たちのための月光荘サロンを改装し、会員制アートクラブ 「サロン・ド・クレール」 を開設して、その女主人となる。
そして月光荘の魅力と信用と人脈をフル活用して、有力な財界人や政治家をどんどん巻き込んでいく。
それは、
平野赳 (日魯漁業 社長 )、
松山茂助 (サッポロビール 社長)、
小山五郎 (三井銀行 社長)、
北裏喜一郎 (野村證券 社長)、
永野重雄 (新日本製鐵 会長)、
武見太郎 (日本医師会 会長)、
谷村裕 (東京証券取引所 理事長)、
駒井健一郎 (日立製作所 会長)、
渡辺省吾 (日興証券 会長)、
斎藤英四郎 (日本経団連 会長)、
岡田茂 (三越 社長)、
金鍾泌 (大韓民国 国務総理)、
中曽根康弘 (内閣総理大臣)、
円城寺次郎 (日本経済新聞社 会長)
など、錚々たるメンバーであった。兵蔵さんが人生をかけて築いてきた月光荘にはそれだけの信用と魅力とパワーがあったのである。
月光荘の信用と魅力、日本画壇を代表する著名な画家たちの名前、そして日本の政財界を代表する政治家や財界人たちの名前がそろえば、金儲けのネタはいくらでも出てくる。地方の小金持ちなどに絵画などを売りつけるなどは簡単だ。
こうして中村曜子が主導する月光荘ではどんどん大金が動くようになり、同時に中村曜子とその背後の闇人脈にどんどん食い潰されるようになっていった。
この時期、兵蔵さんは70代後半から80代であったが、銀座月光荘ビルの一角の画材店で、日々、画材や絵の具の改良を重ねながら若い芸術家の卵たちの育成に心を砕いていた。
その同じ銀座月光荘ビルの別のフロアのサロンで、中村曜子は百蔵さんと著名人たちを利用しながら大金を動かしていたのだ。
1977年、中村曜子は百蔵さんをそそのかして月光荘ビルの近所のビルに別の事務所を開設する。ときに兵蔵さんは84歳。
こうして兵蔵さんの目がまったく届かなくなると、いつの間にか、社長であった百蔵さんと副社長であった中村曜子の立場が逆転し、中村曜子が社長、百蔵さんが副社長となっていた。
いくら月光荘の名前や人脈を利用して大金を手に入れても、食い潰される金のほうが大きければすぐに枯渇して潰れてしまう。さらに荒稼ぎをしなければ追いつかない。
こうして、中村曜子はレオナルド・ダ・ヴィンチの贋作をめぐって20億円の詐欺事件を引き起こし、1988年、イタリアのミラノ検察庁によって起訴され、国際的スキャンダルとなる。
これが月光荘事件と呼ばれるものだが、しかしそれは氷山の一角にすぎないだろう。おそらく荒稼ぎした金は数百億円以上あったと思われ、その多くが闇に消えたはずだ。
なにしろその翌年、月光荘が倒産すると、月光荘に残った負債だけで188億円あった。長年の商売なので負債の何倍~何十倍の商取引があったはずだからだ。
この月光荘事件が勃発したとき、兵蔵さんはじつに95歳であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
仕事に失敗したり事件に巻き込まれると、世間は冷たい。
汚点だという。
しかし詐欺事件に巻き込まれたことは汚点ではない。
これを汚点だと罵るほうがバカ者なのだ。
とくに当時、バブルの経験で日本人全体が金持ちになったと勘違いし、何か自分たちがセレブな人間になったと勘違いする風潮があったから、失敗した人や事件を起こした人には冷たい世相があったと思う。いや、そういう世相はいまもある。
しかしそういう冷たい人は世界の恐さがわかってないのだ。
闇の実力者から狙われれば、どんなに法律に詳しい人であっても、商売に精通している人であっても、刑事や官僚であっても、ほとんどの人が赤子の手をひねるように騙され、罠にはめられ、巻き込まれてしまう。力量が桁違いなのだ。
人の失敗を汚点だと罵るようなバカ者などイチコロでやられてしまう。
兵蔵さんは被害者である。
しかもその後の姿勢が立派なのだ。
そう、この一連の出来事は、汚点ではなく、立派な美点なのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
兵蔵さんは86~87歳のころに水野スウに送った手紙に、
「私はいつ死んでも悔いはないが、あと十年必ず生き延びて、与謝野晶子先生への感謝と、画家たちへの感謝の、つきぬ永遠の基を作る」
と書いている。
また同じころの手紙に、
「耳がとおくなってくると、相手の目の色に気がつくようになってきた。目がかすんでも、手のにぎり具合と温かさで心にしみる度合いが違ってくるようになった」
と、書いている。
すなわち、
あと10年で、大恩ある与謝野晶子先生や画家の先生たちへの感謝のご恩報じをゆるぎないものにする。その感謝ご恩報じの永遠の基となる月光荘を作るのだ。
そのために自分の身体の道具をすべて活かし、すべて使い切る。
いのちを燃やし切る。
生きることに誠実を尽くすとは、自分の全身を、自分のいのちを燃やし切ることである。
いま、95歳。
もうすぐその10年目が来ようとしている。
すでに兵蔵さんの耳は遠くなり、目はかすんでいたかもしれない。
しかしそれらが使えなければ手のぬくもりで感じ取り、
最後はハートで感じ取って、
ゆるぎない月光荘にしなければならない。
そんな兵蔵さんと月光荘に中村曜子による大惨事が襲い掛かったのである。
一連の事件に遅ればせながら気づいた95歳の兵蔵さんに、絶望している時間はない。残されたいのちの全身全霊をかけて、最後のご恩報じに挑むのである。
もはや財産も名誉もすべてを失うのは避けられない。
いや、財産も名誉もすべてなくなってもいい。
しかし 「月光荘」 の名は、大恩ある与謝野晶子先生から頂いた看板である。
すべてを失っても 「月光荘」 の名前だけは守らなければならない。
月光荘の名前のついた画材店を潰してはならない。
まず、兵蔵さんは、名門の家に嫁に行っていた娘のななせさん(百蔵さんの妹)を立てて裁判に打って出る。
月光荘が倒産するのはやむを得ないが、その画材部門は一連の事件と全く関わりがないことを訴えたのだ。
そして兵蔵さんとななせさんは、巨大な負債を抱えて倒産していく 「月光荘」 から、画材部門を分離することに成功し、 「月光荘画材店」 の名前を守り切る。
次に、その月光荘画材店を再興しなければならない。
月光荘画材店の名称はななせさんが継いだが、しかし、この名称のほかは何もないのである。
少しづつ土地を買って建てた銀座のビルも店も自宅もお金も信用もすべて失った。
しかも名前だけの月光荘画材店の、新たな代表取締役社長となったななせさんは3人の子供を抱え、子育てに奮闘する一主婦であった。
ななせさんは兵蔵さんが50歳のときの娘だから、ときに45歳。もちろん経営の経験など全くない。
1945年に太平洋戦争に敗戦したときも、兵蔵さんは裸一貫となったが、そのときは日本中が焼け野原で多くの日本人が裸一貫であった。
資産は全部失っても、兵蔵さんが築いた信用もお客様も親しい画家たちも健在であった。
戦後、わずか3坪の小さな店で再スタートしてもみんなが応援してくれた。
しかしいまやすべてを失ったうえに、汚点だと言われる。店を借りるにしても、事件を起こした会社に部屋を貸してくれるところはなかった。
二人で銀座中を探し回って、やっと見つけた空き部屋は、エレベーターもなく、階段で上がる雑居ビルの4階の狭い一室であった。 4階の一番奥の日も入らない暗い部屋だ。
商品を置く棚も買えず、床に絵の具を並べて売った。
ななせさんは一日一日が無我夢中で、未来なんて頭の片隅にもなかった。
中学生になった孫の康造さん(ななせさんの息子)も店番に立った。
それから1年にわたって、
兵蔵さんは娘のななせさんと孫の康造さんの魂に、自分の最後のエネルギーの全てを、全身全霊を打ち込んで、月光荘再建のレールを敷いていく。
ある日、将来に対する不安のあまり、ななせさんが思わず 「こんな場所で本当にやっていけるかな・・・」 と口にすると、
兵蔵さんは一言、 「大丈夫、店は場所が作るんじゃない。人が作っていくものだから。」 と言い切って、振り向きもせず、また階段を上がっていった。
兵蔵さんのゆるぎない信念がそこにあった。
こうして1年後、月光荘再建のレールは確立する。
兵蔵さんはこの1年で最後のいのちをすべて燃やし切り、そのレールの確立を見極めると、まもなく人生を終えた。
その後、月光荘は娘ななせさんと孫の康造さんによって見事に再建され、拡大していく。
孫の康造さんは、
「逆風のときにこそ人は試されます。祖父は本当に苦しいときの生き様を、何を語るでもなく、その背中で見せてくれました。それは他の何にも代えがたい月光荘の財産として、いまも僕らの心に生き続けています。」
と述べている。
これは娘のななせさんの言葉である。
わたしが父について今になって一番強く感じていること。
それは父の念じる力です。
少しも先の読めなかった私と月光荘の、父亡きあとの30年間を、
とにかくひたすら前を向いて歩ませ続けてくれたのは、
最後の父の強い念力、まっすぐな祈りの力です。
兵蔵さんは、最後のいのちをかけて、大恩ある与謝野晶子先生と画家の先生たちへの最後のご恩報じを成し遂げたのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
おれ自身が96歳まで生かされるかどうかはわからないが、
仮に生かされたとして、兵蔵さんのようにすべて失ったとしたら、
耳も遠くなり、目もかすんだ身体で、人生最後の全エネルギーを注ぎこんで、自分が死んだ後の30年間の復興のレールを敷けるだろうか。
いや、できるかどうかではなく、兵蔵さんから学んだように、人生最後の場面で大惨事に見舞われようと、あるいは無事平穏であろうと、どんな状況であっても、生きざまは兵蔵さんと同じ覚悟でなければならない。
今回は兵蔵さんの人生の骨子だけをまとめたが、いつか己の勉強のために兵蔵さんの人生をさらに詳細にまとめてみたいと思った。
この学びを与えてくれた 「人生で大事なことは月光荘おじさんから学んだ」 を世に出してくれたきゅうぴい子さんに改めて感謝させていただくとともに、ななせさんと康造さんの月光荘が、月光荘の兵蔵さんの精神が、ますます盤石となることを祈念します。
風潮 フィットするって、気持ちいい。
いいえ、風潮です
(澤田政廣 「蓮華」 89歳の作品)
昨日、彫刻家・澤田政廣の生命力溢れる彫像の話を聞いて、さっそく今日、熱海の澤田政廣記念美術館に行ってきた。
その作品から発する生命力、作品から感じる動きの速度、真剣勝負の迫力などいずれも圧倒的であった。とくに89歳の作品 「蓮華」 がわれわれに働きかける速度には気圧される思いすらした。澤田政廣についてはぜひまた別の機会に書いてみたい。
奇遇だが、澤田政廣は月光荘おじさんの兵蔵さんと同じ1894年生まれだ。故人となられたのも澤田政廣は1988年(93歳)であり、兵蔵さんは1990年(96歳)で、明治、大正、昭和を同世代で生きた二人であった。
澤田政廣は澤田政廣記念美術館が設立され、最後の力作 「大聖不動明王」 を仕上げ、三越でその記念展を開催すると、まもなく亡くなった。
兵蔵さんもまた同じように、そのいのちのすべてを燃やし切って亡くなるのである。
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その事件が起こったのは、じつに兵蔵さんが95歳のときである。
兵蔵さんが大恩ある芸術家たちのために開店した月光荘は、戦前、新宿の一等地に100坪もの敷地を有するまでに大きくなったが、太平洋戦争の大空襲によって灰燼に帰し、兵蔵さんは再び裸一貫となった。
しかし兵蔵さんは、戦後、銀座に移り、わずか3坪の小さな店で月光荘を再興する。
兵蔵さんの月光荘は、画材や絵の具の開発を続け、少しづつ土地を買い増しして、芸術家たちのために再びサロン、喫茶店、ギャラリー、アトリエ、クラブを順次併設していった。
ご恩報じは現役の芸術家たちに対してだけではなかった。芸術家の卵の若者たちの面倒も見、彼ら彼女らが世に出るのを助けつづけた。
その月光荘が、90代となった兵蔵さんのあずかり知らないところで、妖女、中村曜子に食い物にされる。
中村曜子によって月光荘は膨大な借金を負い、国際スキャンダルとなる事件を引き起こし、ついに倒産するのである。
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その種は、兵蔵さんが70代半ばのとき、月光荘の会社の経営を息子の百蔵さんに譲ったときに生じた。
所帯の大きくなった月光荘の経営は息子百蔵さんに任せ、兵蔵さん自身は月光荘ビルの一角の画材店で芸術家たちのお世話をし、画材・絵の具の開発をつづけていたのである。
百蔵さんは兵蔵さんが40歳を過ぎて生まれたので、若い青年社長のデビューであった。
中村曜子は、軍人の家に生まれ、女学校時代に陸軍士官学校の教官と結婚するが、夫が戦死した場合を見越して、まもなく生まれた娘を自分の妹として入籍したほど計算が先立つ女だった。
その後、彼女は夫と離婚し、資産家の安宅家の二代目と昵懇になり、その庇護を受けて印刷会社を経営し、学生向けアパートを所有し、娘を慶應義塾幼稚舎に通わせた。ちなみに安宅家は後に倒産する大手商社安宅産業のオーナー家である。
彼女は安宅家の二代目に対しても世間に対しても 「夫婦別れみたいなことでは具合が悪い」 と考え、周りに 「娘の父は戦死した」 と話していた。
ウィキペディアなどによると、この後に彼女の背後には錚々たる闇の大物、森下安道や小谷光浩らが関与することが指摘されている。
彼ら闇の大物は、あらゆる手段を使って資産家や利用価値のある人間を罠にはめ、食い物にするのはお手の物だ。
おれの恩師だったK会長(田中角栄から森喜朗までの歴代総理のフィクサー、故人)や、いまおれが師事しているT先生(現在、自民党系の最強のフィクサーと目される、78歳)たちが、ときに対立し、ときに利用し、ときに戦ってきた闇の実力者たちである。
中村曜子はこののち月光荘を食い潰していくが、彼女自身もまた彼ら闇の実力者たちに利用されて食い物にされていただろうことは容易に察しがつく。
そんな妖女、中村曜子の娘が通っていた慶應義塾幼稚舎~中等部に、兵蔵さんの息子の百蔵さんも通っていたのである。
そのころ中村曜子は20代から30代。彼女が娘の友だちの百蔵さんに意図して近づいたのであれば、少年の百蔵さんが彼女に憧れるように仕向けるのは簡単なことであっただろう。
やがて百蔵さんが若くして月光荘の二代目社長に就任すると、中村曜子も月光荘の経営に参画するようになる。ときに中村曜子41歳である。
なにしろ月光荘は与謝野晶子によって命名された歴史のある画材店であり、
画材に関して30件以上の特許商品を所有し、フランス以外では不可能であった絵の具の開発に世界で初めて成功し、フランスのルモンド誌から 「フランス以外の国で生まれた奇跡」 と大称賛されていた。
そして、なによりも
梅原龍三郎、
有島生馬、
岡田三郎助、
藤田嗣治、
関口俊吾、
小糸源太郎、
猪熊弦一郎、
脇田和
など日本画壇を代表する画家たちが、故人も現役もみな月光荘と親しい付き合いをしていたのである。
中村曜子やその背後の闇人脈にとって月光荘は利用価値のあるご馳走であっただろう。
中村曜子は、月光荘の経営に参加するとすぐに、銀座月光荘ビル内にあった芸術家たちのための月光荘サロンを改装し、会員制アートクラブ 「サロン・ド・クレール」 を開設して、その女主人となる。
そして月光荘の魅力と信用と人脈をフル活用して、有力な財界人や政治家をどんどん巻き込んでいく。
それは、
平野赳 (日魯漁業 社長 )、
松山茂助 (サッポロビール 社長)、
小山五郎 (三井銀行 社長)、
北裏喜一郎 (野村證券 社長)、
永野重雄 (新日本製鐵 会長)、
武見太郎 (日本医師会 会長)、
谷村裕 (東京証券取引所 理事長)、
駒井健一郎 (日立製作所 会長)、
渡辺省吾 (日興証券 会長)、
斎藤英四郎 (日本経団連 会長)、
岡田茂 (三越 社長)、
金鍾泌 (大韓民国 国務総理)、
中曽根康弘 (内閣総理大臣)、
円城寺次郎 (日本経済新聞社 会長)
など、錚々たるメンバーであった。兵蔵さんが人生をかけて築いてきた月光荘にはそれだけの信用と魅力とパワーがあったのである。
月光荘の信用と魅力、日本画壇を代表する著名な画家たちの名前、そして日本の政財界を代表する政治家や財界人たちの名前がそろえば、金儲けのネタはいくらでも出てくる。地方の小金持ちなどに絵画などを売りつけるなどは簡単だ。
こうして中村曜子が主導する月光荘ではどんどん大金が動くようになり、同時に中村曜子とその背後の闇人脈にどんどん食い潰されるようになっていった。
この時期、兵蔵さんは70代後半から80代であったが、銀座月光荘ビルの一角の画材店で、日々、画材や絵の具の改良を重ねながら若い芸術家の卵たちの育成に心を砕いていた。
その同じ銀座月光荘ビルの別のフロアのサロンで、中村曜子は百蔵さんと著名人たちを利用しながら大金を動かしていたのだ。
1977年、中村曜子は百蔵さんをそそのかして月光荘ビルの近所のビルに別の事務所を開設する。ときに兵蔵さんは84歳。
こうして兵蔵さんの目がまったく届かなくなると、いつの間にか、社長であった百蔵さんと副社長であった中村曜子の立場が逆転し、中村曜子が社長、百蔵さんが副社長となっていた。
いくら月光荘の名前や人脈を利用して大金を手に入れても、食い潰される金のほうが大きければすぐに枯渇して潰れてしまう。さらに荒稼ぎをしなければ追いつかない。
こうして、中村曜子はレオナルド・ダ・ヴィンチの贋作をめぐって20億円の詐欺事件を引き起こし、1988年、イタリアのミラノ検察庁によって起訴され、国際的スキャンダルとなる。
これが月光荘事件と呼ばれるものだが、しかしそれは氷山の一角にすぎないだろう。おそらく荒稼ぎした金は数百億円以上あったと思われ、その多くが闇に消えたはずだ。
なにしろその翌年、月光荘が倒産すると、月光荘に残った負債だけで188億円あった。長年の商売なので負債の何倍~何十倍の商取引があったはずだからだ。
この月光荘事件が勃発したとき、兵蔵さんはじつに95歳であった。
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仕事に失敗したり事件に巻き込まれると、世間は冷たい。
汚点だという。
しかし詐欺事件に巻き込まれたことは汚点ではない。
これを汚点だと罵るほうがバカ者なのだ。
とくに当時、バブルの経験で日本人全体が金持ちになったと勘違いし、何か自分たちがセレブな人間になったと勘違いする風潮があったから、失敗した人や事件を起こした人には冷たい世相があったと思う。いや、そういう世相はいまもある。
しかしそういう冷たい人は世界の恐さがわかってないのだ。
闇の実力者から狙われれば、どんなに法律に詳しい人であっても、商売に精通している人であっても、刑事や官僚であっても、ほとんどの人が赤子の手をひねるように騙され、罠にはめられ、巻き込まれてしまう。力量が桁違いなのだ。
人の失敗を汚点だと罵るようなバカ者などイチコロでやられてしまう。
兵蔵さんは被害者である。
しかもその後の姿勢が立派なのだ。
そう、この一連の出来事は、汚点ではなく、立派な美点なのだ。
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兵蔵さんは86~87歳のころに水野スウに送った手紙に、
「私はいつ死んでも悔いはないが、あと十年必ず生き延びて、与謝野晶子先生への感謝と、画家たちへの感謝の、つきぬ永遠の基を作る」
と書いている。
また同じころの手紙に、
「耳がとおくなってくると、相手の目の色に気がつくようになってきた。目がかすんでも、手のにぎり具合と温かさで心にしみる度合いが違ってくるようになった」
と、書いている。
すなわち、
あと10年で、大恩ある与謝野晶子先生や画家の先生たちへの感謝のご恩報じをゆるぎないものにする。その感謝ご恩報じの永遠の基となる月光荘を作るのだ。
そのために自分の身体の道具をすべて活かし、すべて使い切る。
いのちを燃やし切る。
生きることに誠実を尽くすとは、自分の全身を、自分のいのちを燃やし切ることである。
いま、95歳。
もうすぐその10年目が来ようとしている。
すでに兵蔵さんの耳は遠くなり、目はかすんでいたかもしれない。
しかしそれらが使えなければ手のぬくもりで感じ取り、
最後はハートで感じ取って、
ゆるぎない月光荘にしなければならない。
そんな兵蔵さんと月光荘に中村曜子による大惨事が襲い掛かったのである。
一連の事件に遅ればせながら気づいた95歳の兵蔵さんに、絶望している時間はない。残されたいのちの全身全霊をかけて、最後のご恩報じに挑むのである。
もはや財産も名誉もすべてを失うのは避けられない。
いや、財産も名誉もすべてなくなってもいい。
しかし 「月光荘」 の名は、大恩ある与謝野晶子先生から頂いた看板である。
すべてを失っても 「月光荘」 の名前だけは守らなければならない。
月光荘の名前のついた画材店を潰してはならない。
まず、兵蔵さんは、名門の家に嫁に行っていた娘のななせさん(百蔵さんの妹)を立てて裁判に打って出る。
月光荘が倒産するのはやむを得ないが、その画材部門は一連の事件と全く関わりがないことを訴えたのだ。
そして兵蔵さんとななせさんは、巨大な負債を抱えて倒産していく 「月光荘」 から、画材部門を分離することに成功し、 「月光荘画材店」 の名前を守り切る。
次に、その月光荘画材店を再興しなければならない。
月光荘画材店の名称はななせさんが継いだが、しかし、この名称のほかは何もないのである。
少しづつ土地を買って建てた銀座のビルも店も自宅もお金も信用もすべて失った。
しかも名前だけの月光荘画材店の、新たな代表取締役社長となったななせさんは3人の子供を抱え、子育てに奮闘する一主婦であった。
ななせさんは兵蔵さんが50歳のときの娘だから、ときに45歳。もちろん経営の経験など全くない。
1945年に太平洋戦争に敗戦したときも、兵蔵さんは裸一貫となったが、そのときは日本中が焼け野原で多くの日本人が裸一貫であった。
資産は全部失っても、兵蔵さんが築いた信用もお客様も親しい画家たちも健在であった。
戦後、わずか3坪の小さな店で再スタートしてもみんなが応援してくれた。
しかしいまやすべてを失ったうえに、汚点だと言われる。店を借りるにしても、事件を起こした会社に部屋を貸してくれるところはなかった。
二人で銀座中を探し回って、やっと見つけた空き部屋は、エレベーターもなく、階段で上がる雑居ビルの4階の狭い一室であった。 4階の一番奥の日も入らない暗い部屋だ。
商品を置く棚も買えず、床に絵の具を並べて売った。
ななせさんは一日一日が無我夢中で、未来なんて頭の片隅にもなかった。
中学生になった孫の康造さん(ななせさんの息子)も店番に立った。
それから1年にわたって、
兵蔵さんは娘のななせさんと孫の康造さんの魂に、自分の最後のエネルギーの全てを、全身全霊を打ち込んで、月光荘再建のレールを敷いていく。
ある日、将来に対する不安のあまり、ななせさんが思わず 「こんな場所で本当にやっていけるかな・・・」 と口にすると、
兵蔵さんは一言、 「大丈夫、店は場所が作るんじゃない。人が作っていくものだから。」 と言い切って、振り向きもせず、また階段を上がっていった。
兵蔵さんのゆるぎない信念がそこにあった。
こうして1年後、月光荘再建のレールは確立する。
兵蔵さんはこの1年で最後のいのちをすべて燃やし切り、そのレールの確立を見極めると、まもなく人生を終えた。
その後、月光荘は娘ななせさんと孫の康造さんによって見事に再建され、拡大していく。
孫の康造さんは、
「逆風のときにこそ人は試されます。祖父は本当に苦しいときの生き様を、何を語るでもなく、その背中で見せてくれました。それは他の何にも代えがたい月光荘の財産として、いまも僕らの心に生き続けています。」
と述べている。
これは娘のななせさんの言葉である。
わたしが父について今になって一番強く感じていること。
それは父の念じる力です。
少しも先の読めなかった私と月光荘の、父亡きあとの30年間を、
とにかくひたすら前を向いて歩ませ続けてくれたのは、
最後の父の強い念力、まっすぐな祈りの力です。
兵蔵さんは、最後のいのちをかけて、大恩ある与謝野晶子先生と画家の先生たちへの最後のご恩報じを成し遂げたのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
おれ自身が96歳まで生かされるかどうかはわからないが、
仮に生かされたとして、兵蔵さんのようにすべて失ったとしたら、
耳も遠くなり、目もかすんだ身体で、人生最後の全エネルギーを注ぎこんで、自分が死んだ後の30年間の復興のレールを敷けるだろうか。
いや、できるかどうかではなく、兵蔵さんから学んだように、人生最後の場面で大惨事に見舞われようと、あるいは無事平穏であろうと、どんな状況であっても、生きざまは兵蔵さんと同じ覚悟でなければならない。
今回は兵蔵さんの人生の骨子だけをまとめたが、いつか己の勉強のために兵蔵さんの人生をさらに詳細にまとめてみたいと思った。
この学びを与えてくれた 「人生で大事なことは月光荘おじさんから学んだ」 を世に出してくれたきゅうぴい子さんに改めて感謝させていただくとともに、ななせさんと康造さんの月光荘が、月光荘の兵蔵さんの精神が、ますます盤石となることを祈念します。
風潮 関連ツイート
つい先日も、職場の上長に「あんたは反日って感じがせんから安心やわ!」といって同化・帰…
「わたしを見ていたようだったけど、気のせいかな?」
そりゃ往来を水着姿で歩いてたら、撮影だとしても思わず二度見するよね
咲… https://t.co/b2DxNneJXr