成仏からの遺言
成仏のワールドカップ
こんにちは。高橋ゆりこです。
少し前になりますが、
「僕らは奇跡でできている」
というドラマがありました。
穏やかに進行していくドラマでしたが、UMI的な視点がとても強いドラマだな~と観るたび感じる、心が温まるドラマでした。
9話の最後で、天真爛漫に樫野木先生の過去を褒める相河先生に対して、樫野木先生が感情のままに悪意をぶつけてしまいます。
相河先生みたいになれたら幸せだよね
学力があって、できないことがあっても支えてくれる人がいて、好きなことだけやってられて。
子どもはキラキラした大人に憧れるんだよ。
でも、キラキラした大人には、ほんの一握りしかなれない。
なのに、学生たちも相河先生みたいになりたがってる。
なれなかったらどうするの?責任とれるの?
相河先生はここだから居られるんだよ。よそではできない。
それ分かってる?
分かってるなら、人生の成功者みたいな顔して学生たちを勘違いさせないで欲しい。
迷惑なんだよ。悪影響なんだよ。
ここから消えて欲しい。
相河先生が帰った後、鮫島教授と樫野木先生が話すシーンがあります。
学生たちは、自分のやりたいことや好きなことを仕事にすることが正しい生き方だと勘違いしています。
やりたいことなんて、簡単に見つかりません。
そんなもの、そもそも無いのかもしれません。
足元見ないでふわふわして、見つかるかどうか分からないものを探して、自分の人生をちゃんと考えてる気になるんです。
中には、やりたいことがない自分はダメだって、無駄に自分を責める学生がいるかもしれません。
相河先生の影響を受けている学生たちは、みんなそうです。
樫木先生の話を聞いた鮫島教授は、こう問いかけます。
「それで、樫野木先生は、何に苛立ってるの?」
今話したじゃないですか。
相河先生のことですよ。
それから、相河先生を許容している鮫島教授のことも。
鮫島教授は、更にこう問いかけます。
「樫野木先生が問題に思っていることって、本当に相河先生なのかな?」
鮫島教授の問いかけに、
「もちろんです!どういう意味でしょうか?」
樫野木先生の質問に、鮫島教授は答えます。
樫野木先生って、たまーに自分の課題をすり替えることあるじゃない?
前にも、ほら、学生たちが群馬に出かけた相河先生を追いかけて、樫野木先生の講義を休んだじゃない。
あれも、相河先生のせいにしたけど、違うと思うんだよね。
樫野木先生の講義がつまらないからだよ。
今回のことも、相河先生のせいにしておけば、向き合わずに済むことがあるんじゃないの?
「課題のすり替え」
UMIマスターコースや、UMIカウンセリングの中で、本当によく出てきます。
自分の世界の中に、無意識に悪者を作り、
その人が悪い。
その人のせいでうまく行かない。
と、その悪者のせいにしておけば、自分の心の奥に隠してある封印した見たくない傷と向き合わずに済む。
樫野木先生が、相河先生に苛立つのは、
相河先生が、自分が諦めたことをのびのびやって、それを周囲に受け入れてもらい、うまく行っているから。
腹が立つ相手、苛立つ相手は、
自分が自分に制限していることを易々とやっている人です。
好きなことでのびのびと生き、食べていけている相河先生。
好きなことをのびのびやることを、周囲に許されている相河先生。
その存在は、樫野木先生にとって、
好きなことでは食べていけないと、好きなことをして食べていく道を諦めた過去の自分を刺激する存在なんですね。
樫野木先生は、正しいこと必要なことをきちんとやるべきで、人に迷惑をかけてはいけない、と考え行動する先生です。
でもかつては、相河先生と同じ生き方をしていた。
フィールドワークにのめり込みすぎた生き方が、離婚に繋がったと思っていました。
だから、かつての自分の生き方を否定していたんです。
だけど、がんがんフィールドワークをして生き物の生態を調査していた頃のお父さんはカッコよかったと、別れた妻が言っていた話を娘から聞き、樫野木先生の生き方の根底が揺らいだんですね。
今の自分の生き方。
これまで否定してきたかつての生き方。
自分の生き方を真正面から見つめ直す必要があるのかもしれない。
そこで湧いた不安や恐怖を、相河先生を悪者にして、相河先生のせいにして、無意識に目を反らしてごまかしていることを、鮫島教授は指摘したんです。
最終話で、樫野木先生は、離婚の本当の理由を話します。
フィールドワークに明け暮れていた樫野木先生は、娘が生まれて収入のために塾講師になりました。
だけどそれは、自分のやりたいことではなかったため、些細なことでイラつくようになりました。
妻は、「フィールドワークに戻ればいい」と言ってくれた。
でも、樫野木先生自身がそれを拒み、
「誰のために辞めたと思ってるんだ!?」
と、そんな妻の思いやりの言葉にすらイラついた。
家族のせいにしておけば、
家族のために職を変えたことにしておけば、
研究者としてフィールドワークで食べていく覚悟も才能もない自分と向き合わずに済んだのだ。
という、隠し続けて目を反らし続けた本音に、樫野木先生は気づき吐露します。
好きなことでのびのびと生きてはいけないと、
好きなことでは食べていけないと、
好きなことをのびのびやることは許されないと、
禁じてきたのは、
自分を好きでいられない人生を創ったのは、
他の誰でもない、紛れもなく自分自身だった。
ということを、樫野木先生は認めるのです。
「自分の選択が正しかったと思うためには、相河先生を否定するしかなかった…。」
と、自分に丸っと降参した樫野木先生に、鮫島教授は、
「だから相河先生と出会えたのかもしれないね」
と声をかけます。
きっと、これからの樫野木先生の人生は大きく変わっていきます。
自分に降参して、どんな自分も、自分の人生を丸ごと受け入れたとき、人生は大きく動き出します。
人は、いつからでも、いくらでも、変われます。
自分を好きでいられない人生を選んでしまって、
無意識に後悔し続けてきた本音を樫野木先生に気づかせるために、
神様が相河先生と出会わせてくれたんですね。
人生には、こういう奇跡のような出会いが沢山詰まっています。
あなたの世界に悪者はいますか?
その悪者のおかげで、見なくて済んでいる本音を見つけてあげてね。
【基礎講座日程】
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1月15日(火)・20日(日) 東京
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成仏 毎日の、毎日が、変わる。
日本で「第九」が初演されたのは、ちょうど100年前の1918年。
徳島の俘虜収容所でドイツ人が演奏した。
日本人による初演は、6年後の1924年のことである。
この前年、関東大震災が発生。
復興の途上で開かれる第九の演奏会は、各界の大きな関心を呼んだ。
「疲れ果てた心を振り起して、此処に吾人は、
『歓喜の歌』を謡おうとする!」と、
日本の音楽学者の草分けである田村寛貞は記している。
(『ベートーヴェンの「第九ジュムフォニー」』岩波書店)
演奏会当日は、数時間前から長蛇の列ができ、
会場は廊下まで聴衆であふれた。
大盛況の演奏会は、人々のすさんだ心に、
希望の灯をともすものとなった。
失われていく聴力、保守的な旧社会の人々からの圧迫、
経済苦や家庭の問題――
ベートーベンは絶えず深刻な苦悩にさいなまれていた。
その一つ一つと向き合った末、「悩みを突き抜けて歓喜に至れ」と、
人間精神の勝利をうたい上げた第九は、
今なお世界の人々の心を鼓舞してやまない。
本年の掉尾を飾る座談会が、各地でにぎやかに行われている。
第九のメロディーに乗せて、「創価歓喜の凱歌」を歌う地区もあろう。
広宣流布に挑む誓いと喜びの声を高らかに響かせ、
明“創価勝利の年”へ朗らかに進んでいこう。(由)
名字の言>2018.12.14
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「佐渡御書」日蓮大聖人御書全集P958
鉄(くろがね)は炎打(きたいう)てば剣(つるぎ)となる
賢聖(けんせい)は罵詈(めり)して試(こころ)みるなるべし
~通解~
鉄は鍛え打てば剣となる。
賢人・聖人は罵(ののし)られて試(ため)されるものである。
~池田先生の指導~同志への指針
いよいよ、世界中で地涌の青年が躍り出る、本門の時代が到来した。
挑戦こそ、若人の特権だ。不屈こそ、青春の異名だ。
仏法即社会という最極(さいごく)の使命の大舞台で、
思う存分に乱舞(らんぶ)してもらいたい。
試練は宝、悪口罵詈(あっくめり)は誉(ほま)れである。
恐れず怯(ひる)まず、快活(かいかつ)に忍耐強く、前へ前へ進むのだ。鍛(きた)え抜かれた創価の若き宝剣たる君たちこそが、
人類の新時代を創造するのだから!
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妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがえる義なり
~通解~
妙(みょう)とは蘇生(そせい)の意味である。
蘇生とは蘇(よみがえ)るということである。
~池田先生の指導~同志への指針
信心を根本に生きる人は、どんな状況、どんな場所にあっても、
「ここ」から「新たな出発」を切っていける。
「いま」から無限の「希望の未来」を開いていける。
わが心、わが地域を蘇生させ、
必ず自他ともに幸福の人生を飾っていくことができる。
そのための仏法である。
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「祈祷抄」 日蓮大聖人御書全集 P1351
大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・
潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・
法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず
~ 通解 ~
大地をさして外れることがあっても、大空をつなぐ者があっても、
潮の満ち干がなくなっても、日が西から出ることがあっても、
法華経の行者の祈りが叶わないことは絶対にない。
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「四条金吾殿御返事」 日蓮大聖人御書全集 P1192
ただ心(こころ)こそ大切(たいせつ)なれ、
いかに日蓮(にちれん)いのり申(もう)すとも
不信(ふしん)ならばぬ(濡)れたる・ほくちに・
火(ひ)をうちかくるが・ごとくなるべし、
はげみをなして強盛(ごうじょう)に信力(しんりき)を
いだし給(たま)うべし
~ 通解~
ただ心こそ大切である。
いかに日蓮が祈っても、あなた自身が不信ならば、
濡れている火口(ほくち)に・火を打ちかけるようなものである。
勇んで強盛に信力を出しなさい。
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「転重軽受法門」日蓮大聖人御書全集P1000ページ・編379
先業(せんごう)の重(おも)き今生(こんじょう)につきずして未来(みらい)に地獄の苦を受(う)くべきが今生にかかる重苦(じゅうく)に値(あ)い候(そうら)へば地獄の苦(くるし)みぱっときへて
~通解~
過去世の重い業が今生では尽きずに、来世に地獄の苦しみを受けるところを、今生にこのような重い苦しみにあえば、地獄の苦しみがぱっと消えて……。
現世に正法を信ずることにより、過去世の重い業の報いを軽く受け、消滅させていけると、「転重軽受」の法理を示された一節です。
~池田先生の指導~
仏法では、過去の善・悪の振る舞い(心・言葉・動作)が、
自分自身の生命に善・悪の業として刻まれ、
その報い(果報)が未来に、楽や苦となって、
必ず、あらわれてくると説いています。
過去世の重い罪業による地獄のような苦しみの境涯も、
妙法を弘めようとして遭遇する難を乗り越えることで、
その罪業を消滅させて宿命転換することができる。
罪業をなくしてゼロにするだけでなく、仏界の境涯を開き、
プラスの人生を歩んでいけるようになる。
このことを説いたのが転重軽受という法門です。
信仰のうえで起こる難は、“転じて軽く受けている”姿であることを
忘れてはなりません。
現在世に正法を信じ、修行に励んでいくことで積まれる
「護法の功徳力」によって生命が浄化され、智慧の力、
生命力が強化されて、一切の罪業の苦悩を消滅させ、
成仏という絶対的な幸福境涯を得ることができるのです。
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リンク、修正しました。飛べるようになりました。
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ランキングに参加しています。
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~蓮華~
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