秀吉は何故売れているのかなぁ~、その秘密は・・。
… これまで →
日本は、単独での東アジアの覇権体制を目指し失敗した事はありますが、共同での東アジアの覇権体制に参加した事はありません。
→ つづき →
ー?→
覇権体制と考え方はどうなのか?
と部分もあるかもしれませんが、昨今は、世界の覇権国・米国が東アジア や 東北アジアの覇権体制から一歩身を引く作戦に出ており、そうした体制変化について考える必要に狭まれて来ました。
… もうそうクラブでは →
米国の覇権体制には、戦争屋 (冷戦派) と 銀行屋 (多極派) の2つ体制があると表現しています。
これまで日本の権力社は、安保体制 (密約体制) による覇権体制 (冷戦体制) に依存して来ましたが、日本のである米国は、戦争屋 (冷戦派) ~ 銀行屋 (多極派) へとシフトウエイトしている事が問題になっているようです。
外側では従属的 ⇔ 内側では支配的 な態度を見せる日本の権力社は通信支配をしているので、マスコミ報道から真実を知る事ができません。そのため多くの国民は、多種多様の情報を解読しなければならない時代に突入しております →
現在、米国政府 (トランプ政権) の覇権体制は、東アジアや東北アジアにおいては「軍的路線」~『商的路線』に変更 →
ー?→
日本のである米国 (商的なトランプ政権) は、東アジア や 東北アジアの軍的な覇権体制から一歩身を引く作戦に出ており、これまで戦争屋 (冷戦派) 体制下の悪役国家・北朝鮮問題は中国にお任せし、商的な覇権体制においては、中国は商業を得意とし、ロシアはエネルギーを得意。日本は技術を得意としているので、中・露・日による経済圏への移行を・・と考えているようです。
これまで軍的な覇権体制 (冷戦体制) に依存して来た日本の権力社が「東アジア共同体」や『東北アジア経済圏』などの共同的な商的覇権体制を拒み続けている背景には、ロシア や 中国 アレルギー なども含まれているようです。
その反動から、尖閣諸島問題など。通信支配が行われているテレビ番組では 必要以上な中国脅威論や、ロシアに関する必要以上な恐怖報道が流されているという人もいます。
ー?→
当然ながら、外交 / 貿易を行う際には、相手国を信用する事 ⇔ 警戒する事
。
かけ引き も出て来る物です。とはいえ、日本の権力社が今している事は、
軍的な従属体制の維持で、自立を拒み続けている → たいへん情けない物です →
(・・? 中国が・・、米国が・・。
日本政府は
安保体制 ≒ 密約体制
仕組み通りに動いています。
中でも、日本の権力社が自身の体制維持のために、本来作る必要の無い辺野古基地建設を急いでいる姿が、とても腹立たしく思えて来ました。
…
ー 参考情報 ー →
日本の権力構造と在日米軍
日本の官僚支配と沖縄米軍
氏の言葉を借りると、
トランプ政権の前・オバマ政権の時代から、米国は日本に対して「反米」ではなく ⇔『非米』を求めていたけど、日本の権力社 (官僚機構) は「米国従属体制」→『日米同盟の絆』← 安保体制 (密約体制) に重きを置き続けている。との事です。
(・・? いったいなぜ?
日本の権力社は米国に対して ⇔ 自ら従属体制の道を選ぶのか? と事を考えて見ると、日本の権力構図がとても複雑で歴史的に間接統治システム事と関連しているように思えて来ました。
そこで、
覇権体制と考え方はどうなのか?
と部分もあるかもしれませんが、共同での東アジアの覇権体制について、昔を思い出して見ました。
━↓─━
─扉─
━─↓━
ー 外側と内側の権力構図ついて ー
大日本帝国 (戦前の日本) による大東亜共営圏の「覇権体制」というのは、事実上は日本の『支配体制』でした。
その昔、織田信長も覇権体制的な「東アジア構想」を思い描いていました。が、本能寺の変により内側から亡ぼされました。
大日本帝国の覇権体制 (大東亜共営圏) と織田信長の覇権体制 (東アジア構想) は、外側と内側の様子が違いました。
日本の権力構図はとても複雑で、
「公家 ⇔ 武家 ⇔ 寺家」とありました。
*内側の権力は3家
織田信長は内側の権力 (3家) を統一して、自身が「神 (トップ) 」になろうとしていました。そのため、「本能寺の変」により内側から亡ぼされます。
*織田信長はに退位を迫っていました。
織田信長は朝廷とは 少し距離を置いていましたが、「本能寺の変」で織田信長が亡ぼされた後、豊臣秀吉は逆に朝廷に近づき『関白』になりました。
*内側の体制
内側の体制を落ち着かせた豊臣秀吉は、外側の体制 → 織田信長の覇権体制 (東アジア構想) を引き継ぎ → 朝鮮出兵をし失敗に終わりました。
…
朝鮮出兵は
→
日本と朝鮮の戦争ではなく、日本による覇権体制 (東アジア構想) の1つでした。豊臣秀吉の朝鮮出兵により、日本と東アジアの経済圏 (外側の体制) は冷え込みます →
━↓─━
─扉─
━─↓━
そのころ、
内側の体制 → 武家体制を見てみると?
西国では豊臣家 ⇔ 東国では徳川家の権力構図がありました。
ー 公家と武家の関係 ー
田信長は朝廷とは 少し距離を置き ⇔ 豊臣秀吉は朝廷に近づく。
徳川家康は、幼い頃に読んだ本の影響から、鎌倉幕府を開いた源頼朝 の例に習って朝廷とは 遠く距離を置き、一歩身を引く作戦をしたと云われています。
竹千代 (徳川家康) が読んだ本は「」でした。
…
ー 参考情報 ー →
1603年
徳川家康は、朝廷のより「」の称号を得て → 武士 (武家) と認められます。
朝廷側の視点に立つと?!
『武士』と「兵士」は意味が異なり、戦国時代に登場する「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康」3者は『武士』ではなく「兵士」でありました。が、兵士の徳川家康は朝廷の正親町天皇より「」の称号を得て → 武士 (武家) と認められ、江戸幕府 (武家政権) が始まります →
*公家政権>武家政権
徳川家康は天下取り以上に「」の称号を得る事に苦労したと云われています。
ー?→
日本の権力構図はとても複雑で、
「公家 ⇔ 武家 ⇔ 寺家」とありました。
*内側の権力は3家
徳川家康の政治顧問 (ブレーン) は、寺家・臨済宗 (禅宗) の (こんちいん すうでん) という僧侶でした。
室町幕府 (武家政権) → 戦国時代 (無政府時代) → 江戸幕府 (武家政権) → 続きます →
室町幕府 (武家政権) を開いた足利尊氏も朝廷より「」の称号を得ています。
江戸幕府 (武家政権) も室町幕府 (武家政権) の体制に習って「公家 ⇔ 武家 ⇔ 寺家」3家の体制になっていました。
室町幕府も江戸幕府も、
公家 >「内政」は武家、
公家 >『外交』は寺家。
と関係になっていました。
*内政は武家 ⇔ 外交は寺家
ー?→
1603年 ~
東国では、公家政権 > 武家政権という2家の内側体制は落ち着きを見せていましたが ⇔ 西国には2家の言う事を聞かない豊臣家の残党がいました。
*あくまでも、
公家 / 朝廷側の視点に立つと?!
西国の豊臣家は「兵士」⇔ 東国の徳川家は『武士』の関係でした。
*徳川家康はなので、
(・・! そこで登場するのが?!
徳川家康の政治顧問 (ブレーン) である寺家・臨済宗 (禅宗) の (こんちいん すうでん) という僧侶でした。
━↓─━
─扉─
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「方広寺鐘銘事件」が起きていました。
事件は、寺にかける 「鐘 (カネ) / 梵鐘 (ぼんしょう) 」 に記された文字をめぐって、将軍・徳川家康が 『お怒り』になった出来事だと云われています。
ー?→
将軍・徳川家康が 『お怒り』になった 「鐘 (カネ) / 梵鐘 (ぼんしょう) 」 に記された文字とは、
鐘銘文中に「国家安康」『君臣豊楽』という部分で、「国家安康 (こっかあんこう) 」は、徳川家康の名前を分断し、『君臣豊楽 (くんしんほうらく) 』は、豊臣家の繁栄を願い、徳川家が没落するように呪いが込められている。
と事件がキッカケとなり、
大坂 冬の陣 → 夏の陣 という第2 → 第3の戦いに通じ、その戦いの勝利により江戸時代 (徳川政権) が幕開けしたと云われています。
実は;
「鐘 (カネ) / 梵鐘 (ぼんしょう) 」 に記された文字の事を徳川家康に耳打ちしたのが (こんちいん すうでん) という僧侶でした。
室町幕府も江戸幕府も、
公家 >「内政」は武家、
公家 >『外交』は寺家。
と関係になっていました。
*内政は武家 ⇔ 外交は寺家
ー?→
1603年は、徳川家康が朝廷より『』という称号を得て正式に江戸時代が始まった年と云われています。
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1603年
徳川家康が朝廷より『』と称号を得たと同じ年に、袋中上人 (浄土宗の僧) が琉球にやって来ました。
浮島 (那覇の港) の松山という地です。
袋中上人は京太郎とともに念仏廻り (エイサー) を琉球に伝えた人と知られています。
京太郎は念仏者 (ニンブチャー) と呼ばれ、太鼓を叩いて念仏札を配り、沖縄島の各地を歩いていました。
*その後、1609年に日本と琉球は戦争をします。
諸説ありますが、
京太郎には
間者説』があります。
京太郎が歩いた「沖縄地図」が日本に渡っており、琉球の港や武器庫など詳細に記されていた。と説があります。
*その「沖縄地図」を見た日本軍が1609年、琉球に侵攻
琉球は日本に敗れ、1609年以降 ~ 中国と日本の中間色になりました。
ー?→
… もうそうクラブでは →
むかしの中国政府 (明朝) と日本政府 (室町幕府) も、与党・禅宗系 ⇔ 野党・浄土系。関係があったと考えています。
室町幕府 (武家政権) → 戦国時代 (無政府時代) → 江戸幕府 (武家政権) → 続きます →
ー!→
(・・! 実は 1450年 / 室町時代、
第一尚氏王統の5代目・尚金福 王の時代に、臨済宗 (禅宗) の僧・芥隠承琥 (かいいんしょうこ) は京都の南禅寺より来沖しました。
臨済宗 (
禅宗) の僧・芥隠承琥は 琉球王府の政治顧問 (ブレーン) で、徳川家康の政治顧問である (こんちいん すうでん) の先輩になるようです。
ー?→
短期間で大量の梵鐘 (ぼんしょう) が作られ、その中でも重要な梵鐘は通称・万国津梁の鐘 (カネ) と呼ばれ、首里城の正殿に掛けられていました。
その 「万国津梁の鐘」には『碑文』が書かれていました。
ー!→
実は!
今でも?‥
沖縄県の応接室 (来賓場) には、鐘の碑文があるといいます。
昔も今も? 政治を行う所に、鐘の碑文 (漢文) があるようです。
ー?→
(・・?
(・・?冒頭の お話?
日本は、単独での東アジアの覇権体制を目指し失敗した事はありますが、共同での東アジアの覇権体制に参加した事はありません。
と載せて見ましたが、
水面下では、共同での東アジアの覇権体制に参加した可能性も見え隠れするかもしれません。と事を考えて見ました。
当時、
東アジアの覇権体制 (冊封体制) も 主従関係が set になっていました。
安倍政権を支える教科書団体 / 関係者は「むかし中国政府 (明朝 / 清朝) の覇権体制 (冊封体制) 下に入った琉球は『土下座外交』をしており、琉球の『守礼門』は反日の象徴」と述べていました。
しかし
現在、日本の権力社や安倍政権がしている事も『土下座外交』をしているように見える事があります。
覇権体制と考え方はどうなのか?
と部分もあるかもしれませんが、昔の覇権体制が「冊封体制」⇔ 今の覇権体制が『安保体制』と事になります。そして、事実上 単独的な冊封体制や安保体制と異なる所は 共同での東アジアの覇権体制について、21世紀・世界の覇権体制は大転換期に突入しているけど、日本の権力社 (官僚機構) は、古い冷戦体制 ≒ 安保体制に依存し過ぎていたため、世界各国から「蚊帳の外」に置かれている事が真相のようです。
中でも、日本の権力社が自身の体制維持のために、本来作る必要の無い辺野古基地建設を急いでいる姿が、と
も腹立たしく思えて来ました。
…
ー 参考情報 ー →
秀吉となら結婚してもいい
⇦東北の女性武将予想
戦国無双5 新キャラ予想
おまけの東北の女性武将編です。
前回に引き続き東北の章の新キャラ予想。
↓東北武将キャラ予想
姫武将出るんじゃね?と言いながら出したのが
義姫一人のみww
てな訳で、姫武将+二人を予想したいと思います。
愛姫
独眼竜の妻、夫と共に強い意志で戦国後半を生き抜いた良妻。感動の匕首の逸話を無双でやってほしい!!
伊達政宗の奥さん、愛姫は当時の三春城の大名、田村氏の娘さんです。
ちなみに田村氏は、坂野上田村麻呂の子孫の家系だそうな。初代征夷大将軍の彼の家系も、戦国の波に飲まれて沈没寸前でした。
そんな中、12歳の愛姫は、東北の有力者の一つである伊達家の長男、伊達政宗に嫁ぎます。
序盤の結婚生活はまさに最悪のもので、
・謀反の疑いで、政宗に愛姫の乳母や、侍女たちが殺されてしまう。
・実家の直系の後継がいなくなり、嫁ぎ先の伊達氏に蘆名、相馬氏など各大名の介入も加えての泥沼の後継ぎ抗争。
・結婚から10年、全く子供を授からない。
どれも当時の夫婦関係に確実な亀裂をもたらすような事柄。
現に初期の二人の仲はあまりいいものではなかったようです。
とはいえ、その後、秀吉の小田原攻めに政宗が名実共に豊臣の傘下として参加してから後、関係は修復。
理由なんてわかんないですけどw
勝手に予想するなら、例えば、秀吉の天下統一後、各地の大名の正室は京都、聚楽第に集められていました。
秀吉に下るのが遅かったせいと、未だに野望剥き出しなせいもあって、秀吉の手元にあった愛姫はいつ殺されるかわかったもんじゃありませんでした。それは政宗が決起した時も同じです。
一番危険だったのは人妻好きの秀吉に襲われることでしたがw
なんとなく、そんな苦境の中で協力し合わねばならない二人の仲が徐々に縮まったんじゃないかと思いますw
兎にも角にも、愛姫が聚楽第に移ってから、娘の五郎八姫や、仙台藩二代目の忠宗を産みました。
よかったよかった。
「いざという時は、懐に匕首を携えております。私のことは気にせず大義に従って去就をお決めくださいませ。」
愛姫が出したこの手紙は、まさに二人の修復した信頼関係と覚悟がうかがえると思います。
・匕首の逸話は、秀吉の下に愛姫が送られることが必要。それだと葛西大崎一揆や、長谷堂の戦いに参加させにくくなるし、戦国無双の秀吉のキャラも若干崩れる。
・政宗は女性人気の高い武将。
奥さんを出して仲睦まじくさせんのは、女性ファンを逃す可能性があるのではないか。やっぱり政宗と小十郎でムフフフを求める人がおるわけでやんすよww
なんていう出しにくい事情もあるのかなと思いますが、なんとか愛姫を出してあげて欲しいと思いますww
東北にヒロインをっ!!
武器はなんでしょう。やっぱり匕首かなあと思ったんですけど、匕首ってつまるところ懐刀。
懐刀で無双するのは流石に無理があるかとw
てな訳で、剣と火器を携える伊達家中に習って、小刀と一緒に、小型のボーガンの二つを使い回すなんていいなと思いますwあえて銃じゃなくてもいい気がしますねw
夫同様スピードで攻めるタイプ。
片倉 喜多
鬼庭左月斎の娘で小十郎の姉。伊達輝宗に才覚を見出されて嫡子政宗の育ての親となった才女
片倉喜多、上記の通り左月斎こと、猛将、鬼庭義直の実の娘で小十郎は弟に当たります。
一応言っとくと、小十郎は苗字の通り義直の息子ではありません。母である本沢直子が息子をなかなか産まないということで、義直に離縁されて、神職の片倉景重と再婚。この二人の中に生まれたのが小十郎こと、片倉景綱です。
言ってみれば、喜多は連れ子です。そんな喜多、当時の伊達当主、伊達輝宗に聡明だと
うことで気に入られて嫡子、伊達政宗の乳母となります。
実際には喜多は結婚してなかったので、乳母というよりも養育係の方が近かったようです。喜多は軍学や武道も学んでいて、どちらもかなりの腕前だったとか。
そう考えるとあの政宗の性格はこの人から来てるってことになるのかあ。
…なんかメッチャ怖い人だったような気しかしない。
さて、ストーリーに厚みをかける血縁関係に、軍学、武道の達人という彼女。
無双武将化したら政宗と小十郎をビシバシ叩く、姉さんみたいな感じですかね。普段は落ち着いた感じだけどホントは政宗より凶暴みたいな。
政宗「あんなサルに頭など下げられるか!!」
小十郎「しかし政宗様、ここは現実的にならねばなりませぬ。」
喜多「そうですわ、政宗様、ここは一度降るべきかと。」
政宗「喜多!お主までわしに意見をす….」
喜多「そして油断したサルめの寝所に忍び込み、見るも無惨に八つ裂きに…」
小十郎「姉上、瞳孔開いてる。」
めちゃくちゃ怖い人のイメージあります。
….喜多さんブラック
山田くん、僕と座布団、誰もいないところに持ってって。
そんなわけで、女性を二人紹介。やっぱヒロインは大事だよね!!
次回は北条です!お楽しみにwww
鳴かぬなら埋めてしまえ秀吉
草場さんの描かれたセオリツヒメ、ポストカードから。美しさが香りたつようです。
こちらは羽黒山三所大権現✨右下が妙見菩薩でしょうか?
昨日は旭川で覚醒の香りのお茶会と施術を楽しませていただきました。お茶会では香りとクリスタルのコラボヒーリングを体験。
上はラブラトライトという石。宇宙から来たたましいに目覚めをサポートします。
普段は所々キラキラしている暗い色の石ですが、ヒーリングに使うと、素晴らしい輝き(レッセンス)を見せてくれます。ノーマルなクリスタルもまた、レインボー=虹色の輝きを見せてくれました!
ヒーリング中のお客様は菩薩顔になられます。宇宙の叡智・至福とつながっている大事なひととき。宇宙旅行です。
アロマと石のコラボでパワフルなヒーリングを体験✨このヒーリングは、アロマエンライトメント(R)中級で深く學ぶことができます!
お客様手作りの、いちじくのコンポート
そして、主催者様から本格的なスパイスを調合したカレーがいつも美味しくて感謝です。
さて、お客様の菩薩顔とシンクロですが・・・先日の山形・出羽三山~龍神めぐりのご縁から・・・妙見大菩薩~造化三神(アメノミナカヌシ他)の香り水をお創りしました!
こちらの絵は一般的な妙見菩薩のイメージではなく、山形の○様のもとにやって来られたという妙見大菩薩を描かれたもの。
「星の宮 慈愛妙見」様と名乗られたそうです!
金色(こんじき)の龍に守護され、月と日とをあわせ持つ・・・
江戸時代までは全国に広まっていた妙見信仰は、神仏習合であったことや、アマテラスを頂点とする体系から、はみ出すものですから、明治期にどういう運命をたどったかはお分かりだろうと思います。多くの寺社で、妙見大菩薩としてまつられていたところが、明治の政変にて、アメノミナカヌシなどの造化三神に置き換えられて今に至っているというわけです。
妙見信仰の広がり具合は、全国に妙見という名の付いた山や地名が多くあることでおわかりいただけます。
おおもとの皇室の伝統はどんなものだったのか、京都の北野天満宮などに行ってわかってきたことですが・・・
皇室の祖先として、創作されたアマテラス信仰ではなく
ましてや明治のクーデターの首謀者らが、でっち上げた偏狭な国家神道でもなく
はるか昔に中東から渡来してきた人々が伝えた、陰陽道に基づく北極星~北斗七星を中心とする星の信仰であります。
仏道で言えば妙見大菩薩であり、同時に、神道で言うアメノミナカヌシなどの造化三神。
もちろん、渡来人がもたらす前から、縄文よりもはるか昔からの伝統による、独自の星の信仰もあったでしょう。
その土着の信仰と、陰陽道と、道教、仏道(密教)とが習合して、妙見大菩薩となり日本各地でまつられたわけです。
妙見は軍神でもあり武家があつく信仰した他、江戸時代までは民間、庶民も含めて、広く妙見信仰があったようです。
先日の出羽三山花活けと荘内龍神めぐりの後、参加者の方から、わたくしが大聖坊で奉納したセオリツヒメの香り水を体験できず残念でした、とメッセージをいただきました。
セオリツヒメの他にも、スサノオノ、オオヤマツミ、ツキヨミ、イワナガ、コノハナサクヤ、ヌナカワヒメ、ククリヒメ、ヨドツルヒメ、マグダラのマリアとお創りしてきましたことをお話しすると、
妙見大菩薩の香りはありますか?と🍀(後に、○様は妙見とつながりを持たれていることを伺うことになります。)
わたくしも地元の足立山妙見宮はもちろん、京都やあちこちで妙見様と出逢い、妙見宮や、陰陽道とはご縁が深いようです。
なるほど、妙見大菩薩の香り
それはぜひ作ってみたいなと
心を虚(むな)しく=空っぽにしてみたところ
すぐにパッ!と来た言葉が
スター オブ ベツレヘム✨
フィレンツェのジョット・ディ・ボンドーネ(1267年 – 1337年)「東方三博士の礼拝」。ベツレヘムの星は幼子の上空の彗星として。1301年に出現したハレー彗星を見て描かれた。
そして、
星のひかりのエネルギーが過去生だの未来生だの今の人生だの、そこ=3次元的な時間的への執着や未練を洗い流すこと
そして更には、
豊かに安らいで
生きて行く力を呼び覚まし、取り戻すこと
そんなテーマが次々と、テイクオンミー。
然(しか)して、紡ぎ出されし調香は
金のミルラ、フランキンセンス、エレミ、
太陽光のゴールドのシンボルとしての
グレープフルーツ
同じく金と水が、未練や執着を
星に還し洗い流すウインターグリーン
お香と浄化と安らぎの
シダーウッド、カッシア(ニッキ)、オレンジ
自分を受け入れて愛し
しっかりグランディングしながら
天と地を結ぶ
ファー(もみ)、パイン(松)、
ローズマリー
そして、調香の最終段階で・・・
以上のベースに加わったのは
東方(ペルシャ)の三博士=スリーワイズメンの叡智と
水の浄化とを象徴する精油。
こちらはご依頼の方のみにお知らせします。
・・・元々、星の香り=姫のしずく(滴・雫)とネーミングしていたので、妙見の香り水が来るのは必然だったのでしょう。それをお伝えしてくださいました山形の○様がメッセンジャーとなってくださいました。もちろん、○様も妙見大菩薩とご縁が深く、メッセージを受け取られているようです。
○様からのメッセージからご了解の上、ご紹介させていただきます。
「妙見さまの香りの件ですが、わたくしに視えるお姿を絵にしたものがイメージとしてあった方がいいかなと思ったのでお送りしておきます。
先達と行かれた○○の奥の院には隠された妙見さまがあ
ます。その妙見さまが一年前に私の元に来られました。
わたしの感覚では、その妙見さまは
羽黒神の龍神である宇賀弁財天と
羽黒の五重塔の本尊である妙見さまを
両方勧請して作った妙見さまです。
なので、水の力もとても強く
「星の宮 慈愛の妙見」とご自分でおっしゃいました
普通の妙見さまとはお姿も違います。」
妙見大菩薩は、道教、密教、陰陽道など様々な習合の要素を持つため、お姿も様々あります。
ひとつは、甲冑を身に着けた武将が玄武に乗る姿。玄武は、亀と蛇が合体し、北方の守り神となる想像上の動物です。その他、唐服を着て、笏を持つ陰陽道系の像など。
○様からの更に詳しいお話の前に、妙見信仰についておさらいしておきましょう。
北極星の信仰とも連なって、北辰(ほくしん)妙見大菩薩とも呼ばれます。
普通の菩薩信仰はインドの仏教由来ですが、妙見菩薩は特殊で、古代の中国にて、道教にある北極星の信仰と習合して、それが日本に仏教と共に菩薩として伝来したわけです。
しかし、妙見菩薩はインド由来の菩薩とは異なり、古代中国の星宿思想から、北極星を神格化したものですから、菩薩といいながら、大黒天・毘沙門天・弁才天と同じく、天部に体系化されて伝来したものです。
古代中国での北極星、星宿の神格化ですが、中国と言っても道教や密教や陰陽道であり、わたしの感覚では、その源流は中東の超古代文明にさかのぼり、そこには日本人の源流もいたことと併せて見れば、中国から妙見が伝来したのも、日本人にとっては、自分たちの祖先が産み出した信仰を、時空を超えて再び手にした、そんなわけで、しっくり来るのではなかろうかと思われます。
元々、妙見宮である秩父神社のサイトによりますと、妙見菩薩信仰の起源をさかのぼると、インドも経路のひとつにすぎず、古代バビロニアとのことですから、わたしの直感も当たらずとも遠からずとは言えそうですね。
平安時代の京の都では北辰祭が行われ、北辰=北極星と北斗七聖を神座とした信仰が広まっておりましたのが日本の姿なのです。
古代中国の道教の思想で、北極星=北辰は、天帝=天皇大帝であるとされ、そこに仏教が伝来したとき妙見大菩薩と名付けられたとは言いますが、さかのぼれば中東の古代文明バビロニアにたどり着くわけです。
さて、妙見の意味するところは、真理をよく見通せる優れた眼力(がんりき)のこと。その眼力からも、軍神としてのご加護があるとされたものでしょう。
中世においては源氏や千葉氏など、武士が妙見菩薩を守護神として崇敬し妙見をまつる寺社に寄進するのは一般的なことでした。
ただし、道教+仏教の妙見以前から日本には星をまつる信仰があったわけで、例えば、出雲の神と言えば出雲大社、オオクニヌシということにされておりますが、実際には出雲大社よりはるか昔からの出雲の神をまつってきた出雲神社は、今は別の名前にて妙見をまつる神社(妙見社、現在は長浜神社)であります。もちろん、そこもかつては妙見信仰が入ってからは、妙見大菩薩としてお祀りされ、豊臣秀吉など多くの武将が寄進し、ご加護を祈願してきた歴史があります。
千葉氏の氏神をまつる千葉市の千葉神社で言うと、今の祭神は、妙見菩薩と同一と見なされるアメノミナカヌシ(天之御中主神)です。明治維新のクーデターにて、廃仏毀釈、神仏分離令の嵐が吹き荒れ、菩薩をお祀りできなくなったために、神道での呼び方、アメノミナカヌシに置き換えたわけです。元は千葉妙見宮と称する神仏習合の社でした。
大阪の星田妙見宮や、埼玉の秩父市の秩父神社などなど日本中の妙見をまつる社で同じく置き換えがなされて今に至ります。
今の千葉神社=元の千葉妙見宮は源頼朝もあつく崇拝し、鎌倉仏教の日蓮宗とも結び付いていきます。
妙見菩薩を一族の守護神に位置付けていた千葉氏も日蓮宗で、日蓮宗の寺院にはよく、妙見大菩薩が祀られてきたわけです。
日蓮宗が重んじた経典は法華経ですね。それで、妙見大菩薩の香りをリクエストされた山形の○様のお話がシンクロして納得いきます。
○様が「妙見様はどうして私のところに来たのですか?」とお聞きしたところ、
「(○○の)ご開帳で来た時に法華経を唱えたから。法華経が好きだから来た。そして、いつも自分の大切な人のしあわせを願っている姿を見て、その相手が自分のことをかえりみなくても、一心に祈り続ける姿を見て、わたしはそばにいたくなった。わたしは星の宮 慈愛妙見という」とこたえがあったそうです。
○様のおうちは日蓮宗なので、どこに行っても南無妙法蓮華経と唱えるそうです。そして、御開帳のあった寺社は今は曹洞宗ですが、元は天台宗で、とても立派な法華経の行者が開山し、妙見大菩薩は法華経で勧請されていたようですから、日蓮宗、法華経とのつながりの話が符号いたしました。
こちらは京都の山科(やましな)にある日蓮宗の護国寺に伝わる妙見菩薩像です。玄武に乗っているようです。
知るひとぞ知る話ですが、東京のよみうりランドにある聖地公園には、正安3年(1301年)の銘がある、唯一、重要文化財に指定された妙見菩薩像があります。
かつては伊勢神宮の外宮の妙見堂に祀られていたものとされます。伊勢神宮とて、千年以上、神仏習合であったのですからね。
姿は甲冑を着け、右手に剣を持ち、頭髪を美豆良(みずら)に結う姿。鎌倉時代の作で、伊勢神宮外宮の妙見宮に祀られていたものと云います。甲冑を着て右手に剣を持ちますが柔和な面持ちから、寛容さと力強さを兼ね備えた性質が伝わると言うものですね。
いつか訪ねて、真言「オン ソチリシュタ ソワカ」を唱えてみたいと思います。
○様からのメッセージはとても深いもので今の世に出すには早いのかもしれませんが、あえて、○様のもとに来られ
わけですから、何らかの形でわかる方には広く伝えてほしいと言う事なのでしょう。今回お創りした香り水を通じて、妙見の歴史に再び陽があたることは自然な流れとして感じております。
○様によると、「わたくしが今回、香りをお願いしたのは、妙見さまがお線香でもお茶でもお花でも、とにかく香りを好まれるからです。
魂である妙見さまは、食感や触り心地は、あまり楽しめないので、いつもそれを寂しがっていらっしゃいます。
香りをお仕事にされている方に巡り合わせてくれたのは
自分の香りが欲しいのかなと思ってお願いしたのです。」とのこと。
そして、誠に興味深い妙見大菩薩との出逢いが綴られております。ほんの一部ですがご紹介すると
「昨年12月に羽黒山の合祭殿に行き年末のお礼参りをしていたところ、妙見さまがわたくしと一緒に本殿に入ってきて、嬉しそうに中を踊るように飛び回っているので、これでは他の羽黒の神様にご迷惑だと思い「妙見さまのおうちはここではないのですからお静かにしないとダメですよ」と伝えたところ「ここはわたくしの場所、わたくしのおうちだよ」と言うのです。
えっ?なんのこと?と驚いて調べたところ、羽黒山の五重の塔に明治まで妙見様がお祀りされていたことを知ったのです。
そしてその五重の塔にあった妙見さまは、150センチ近くある大きなもので、観音様と軍荼利さまと一緒に祀られていましたが、廃仏毀釈の時に盗難に遭い、小さな前仏だけが羽黒の黄金堂というところに逃れていると知り
すぐに行ってみましたが冬は雪で閉めていて、五月に見れますとのこと。五月まで待っていたところ、不思議なことに、150年ぶりに五月に五重の塔もご開帳となりました。そして黄金堂にやっと伺ったところ妙見様がいらっしゃり・・・」
誠に不思議なお話でありますが、導かれて、点と点がつながり、ひもとかれてゆくことは偶然ではなく思います。
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近年解読されたイエズス会文書館所蔵の夥しい書簡などの史料から、当時のイエズス会が密かに推進していた日本の化戦略の全貌がようやく浮かび上がってきた。
これらの衝撃的な文書は、研究者である高瀬弘一郎博士がイエズス会本部の文書館から発見して明らかになったものであるが、その後(バチカンにとり)不都合があってか極秘扱いとなり、残念ながら現在は外部に一切公開されていないということである。
もちろん現行の歴史教科書にも決して紹介されることのない、西洋によるアジア侵略の貴重な史料ということになる。
戦後のGHQによる70年前の焚書作業では、こうした類の西洋冒涜の歴史書は事実が書かれていようともすべて公から排除され破棄されたのである。
当然これらは日本人が知ってはいけない歴史情報ということになる。
かって戦国時代の日本において宣教活動を行っていたイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、1582年12月14日付けでマカオからフィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに次のような書簡を出している。
「私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、断言することができる。何故なら、国民は非常に高貴且つ有能にして、理性によく従うからである。
尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。
しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるだろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある。」
文中にある「征服事業を企てる対象としては不向きである」とはどういうことなのか?そして、「シナにおいて陛下が行いたいと思っていることのために」とは、一体何のことなのか?
翌年の1583年、マニラ司教サラサールがスペイン国王に送った書簡(6月18日付)では次のような展開になってくる。
「私がこの報告書を作成した意図は、シナの統治者達が福音の宣布を妨害しているので、これが、陛下が武装してかの王国を攻め入る事の出来る正当な理由になると云う事を、陛下に知らせる為である。(中略)そしてこのことを一層容易に運ぶには、シナの直ぐ近くにいる日本人がジナ人の仇敵であつて、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを、陛下が了解されるとよい。そしてこれが効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、この点日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起すように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせる事である。」
書簡の記述にある様に「陛下が武装してかの王国を攻め入る事の出来る正当な理由」という展開からみてとれることは、明らかにこれらはイエズス会側の中国や東アジアへの軍事的侵攻を示唆したものであることが分かる。
さらにイエズス会日本布教長フランシスコ・カブラルが1584年にスペイン国王へ宛てた書簡には次のようにある。
「私の考えでは、この政府事業(明の化)を行うのに、最初は7千乃至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分であろう。・・・日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)達が容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるだろう。彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1エスクード半または2エスクードの給料で、暿暿としてこの征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう」
ここらは一貫して具体的記述になってきていることが見て取れる。
どうやら彼らからみて勇敢な戦闘員である日本人は、中国を化する事業に際して彼らが必要とする傭兵部隊としての要件が揃っていることをここではことさら強調しているようである。
イエズス会日本準管区長コエリョが1585年3月3日付けでイエズス会布教長アントニオ・セデェーニョに宛てた手紙の抜粋には次のようにある。
「陛下の義務、及び陛下がシナを征服するために望んでいる日本貿易に大いに関係することだからである。・・・・総督閣下に兵隊・弾薬・大砲、及び兵隊のための必要な食料、1、2年食料を買うためのかねを充分搭載した3,4隻のフラガータフ船を日本のこの地に派遣していただきたい。・・・・他の異教徒に大いに悩まされている何人かのキリスト教徒の領主を支援出来るようにするためである。・・・・ただ安全に渡来するためには大艦隊が必要である。・・・・
当地のキリスト教徒の領主の支援を得て、この海岸全体を支配し、服従しようとしない敵に脅威を与えることが出来るのは疑いない。この陛下の援軍が派遣されることにより、・・・・第一に、これらキリスト教徒の諸侯とその家来は、・・・陛下の援助が得られ・・・・・一層信仰を強固なものにする。第二に、異教徒とは・・・脅威と驚きを抱き、・・・・改宗を望む者に対する妨害をしようとはしなくなるであろう。第三に、異教徒はキリスト教徒が陛下から援助を受けるのを見て、・・・・改宗するであろう。もしも国王陛下の援助で日本66カ国凡てが改宗するに至れば、フェリペ゚国王は日本人のように好戦的で怜悧な兵隊をえて、一層容易にシナを征服することが出来るであろう。」
いよいよイエズス会のアジア戦略の最終目標は極東の中国の征服であったことが次第に明確になってくる。
宣教事業と化とは、まさに車の両輪のように推し進められていったことになる。
日本に派遣された宣教師らはその基本戦略を遂行すべく、忠実に軍事的観点から報告書を作成し度々マニラやスペイン本国の上部組織に送っていた。
日本に15年滞在したペドロ・デ・ラ・クルスが1599年2月25日付けでイエズス会総会長へ出した書簡には次のように報告されている。
「日本人は海軍力が弱く、兵器が不足している。そこでもしも国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国を襲うことが出来よう。この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち九州又は四国を包囲することは容易であろう。そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るであろう。・・・
このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るようにする。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適している。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好な位置にある。・・・
(日本国内に防備を固めたスペイン人の都市を建設することの利点について)日本人は、教俗(教会と政治と)共にキリスト教的な統治を経験することになる。・・・
多くの日本の貴人はスペイン人と生活を共にし、子弟をスペイン人の間で育てることになるだろう。・・・
スペイン人はその征服事業、殊に機会あり次第敢行すべきシナ征服のために、非常にそれに向いた兵隊を安価に日本から調達することが出来る」
日本の国内事情を知悉したペドロ・デ・ラ・クルスが、
はっきりとその軍事的侵略の具体的手順を明示しているだけでなく、
ここではその有力な軍事拠点を九州の天草島、志岐を候補として挙げていることに
最も注目しなければならない。
これは単なる机上の空論ではなくて、九州天草周辺では実際にこの戦略に沿って重点的に宣教事業が押し進められ強固な組織づくりが成されていった事実がある。
同時にこの地方への軍事物資の補給と備蓄、密かにキリシタン信徒らの傭兵訓練、練兵とが秘密裏に、且つ巧妙に行われていった。
キリシタン信徒によるコンフラリヤ(ConfrariadeMisericordia:信徒集団組織)組織作りが村々に網の目のように根を張っていった。
その結果は後年の天草・島原の大乱として一気に噴出することとなる。
このように、時代を追ってイエズス会の中でやり取りされたいくつかの書簡を見ていくと、これは聖職者というよりは軍人か軍事顧問団の諜報活動と錯覚しそうである。
まさに法衣をまとった戦士であるイエズス会の宣教師の姿が垣間見える部分といえよう。
そしてこれこそは、長崎代官村山等安がイエズス会を「この方法によって日本をイスパニア国王に服従させるため、彼らの教えに従うように説いているのである」として厳しく糾弾していたように、彼らは始めから侵略計画を持って日本へ渡来してきていた事実が浮かび上がってくる。
渡欧した千々石ミゲルとて少年使節としての長い航海のあいだに、中継地であった占領されたの様子は自分の目で確認していたことであり、行く先々で日本や中国、朝鮮各地から送られてきた多くの奴隷の境涯に落とされた人々の悲惨きわまる姿にも度々遭遇していた。
当時のミゲル自身はイエズス会が主導する宣教事業というものの実態を知って、少なからず驚愕し打ちのめされた想いであったであろう。
長崎代官村山等安に、日本人奴隷の実態とキリスト教国の日本侵略の野望についてはっきりと伝えたのは棄教した千々石ミゲルであった。
等安自身は、長崎周辺で拡大していくイエズス会のコンフラリヤ:信徒集団組織)勢力に強い警戒感を持っていて、それに対抗すべく穏健な別会派のスペイン系托鉢修道会の布教活動を熱心に支援し続けていた。
これに対して後にローマ留学から帰国した長崎の教区司祭トマス荒木は、むしろ托鉢修道会(フランシスコ会)こそが日本侵略を画策していると異なる意見を等安の息子徳安らに表明して憚らなかった。
もとよりポルトガル船と共に渡来してきたキリスト教宣教師の狙いは、宣教事業の推進と異教徒の駆逐、ないしは奴隷化であったが、彼らはまさしく侵略の尖兵としてアジア地域に送り込まれてきたというべきであろう。
異教徒の奴隷化は彼らの教義に基づくものであり、当時は家畜同様の扱いが当たり前であった。
それ以外にも、彼らにはヨーロッパでは入手できない香辛料や絹織物、生糸、鉱物資源などの貴重産品の調達仲介業や占領地の傭兵要員の確保も同時に課せられていた。
海外遠征が成功して新航路が発見され新しい領土()を獲得するごとに彼らは、そこでの収奪や奴隷を扱う仲介貿易によってアジア市場でも莫大な利益を上げることができた。
宣教師が関わる仲介取引による直接の利益はもとより、貿易商からの寄付によって宣教活動の多額の経費そのものは維持されていたが、これらには常にローマ教皇の権威と強力な国王の保護権とが行使されていた。
特に日本や中国、朝鮮の奴隷の買い取り値は、西洋地域との価格差が5倍以上もの開きがあり、商人らは各地の奴隷市場においての転売で巨額の差益を得ることができたのである。
宣教事業の拠点として、またアジア最大の奴隷市場がマカオに作られた。
—— —— —— —— —— ——
参考資料:引用文献
「キリシタン時代の研究」高瀬弘一郎著 岩波書店,1977
「インディアスの破壊に ついての簡潔な報告」ラス・カサス著 染田 秀藤訳 岩波書店 1976
「侵略の世界史」清水馨八郎 祥伝社 1999
「近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で」池本幸三/布留川正博
下山晃共著 人文書院、1995
「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」岸田秀著 新書館 2007
「新・歴史の真実」前野徹著 講談社 2005
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳)全12巻
1 織田信長篇Ⅰ「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
2 織田信長編Ⅱ「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
3 織田信長篇Ⅲ「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
4 豊臣秀吉篇Ⅰ「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
5 豊臣秀吉篇Ⅱ「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
6 大友宗麟篇Ⅰ「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
7 大友宗麟篇Ⅱ「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
8 大友宗麟篇Ⅲ「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
9 大村純忠・有馬晴信篇Ⅰ「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇Ⅱ「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇Ⅲ「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇Ⅳ「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)
「キリシタン時代の文化と諸相」 高瀬弘一郎著 八木書店 2001
「キリシタン時代の貿易と外交」 高瀬弘一郎著 八木書店 2002
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― ② 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― ③ 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「キリシタンの世紀」高瀬弘一郎 岩波書店 1993 号
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策-ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって- 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3号 2005 狹間芳樹著
「ヨーロッパ≪普遍≫文明の世界制覇 鉄砲と十字架」中川洋一郎著 学文社 2003
「近代資本主義の成立と奴隷貿易」西山俊彦 カトリック社会問題研究所「福音と社会」-教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)-4月30日213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)を もたらしたのではないのか
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策-ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって-55アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「原城の戦いと島原・天草の乱を考え直す」丸山雍成編『日本近世の地域社会論』85-137頁所収 服部英雄著
「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著
「歴史物語アフリカ系アメリカ人」 猿谷要 朝日新聞社
「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店
「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著) 徳間書店 2008
「近代資本主義の成立と奴隷貿易」西山俊彦 カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
秀吉 人は着た目が9割
というタイトルの文庫本が発売されます。
自己紹介が遅れました。
よしもとクリエイティブ・エージェンシーにて、ブロードキャスト!!というコンビで活動をしている房野史典と申します。
戦国時代や幕末が好きで、趣味が高じて、本を2冊出版しております。
「本屋で見かけたことある!」
「Amazon検索してたら出てきた!」
「知り合いがSNSで投稿してた!」
「1ミリも知らねーぞ……」
様々なご感想をお持ちでしょうが、上記2冊の著者をやらせていただいております。
そんな私が、この度趣味が高じすぎて、新しい本を出すことになりました。
それが既出のコチラ↓
でございます。
当たり前も当たり前の話をさせていただきますが、この本を
1人でも多くのみなさんに読んでいただきたい。
もちろん、すでに出ている2冊も含め、この3冊をまとめて売りたいと強欲バリバリな事を考えている次第です。
自分はですね、常々言っていることがあるんです(勝手に)。
「とんでもない才能を持った人間たちが、生きるか死ぬかの瀬戸際で、その力をフル活用して戦ったのが、戦国や幕末という時代。こんなノンフィクション、おもしくないわけがない」
と。
(”常々”と言いましたが、ごめんなさい、初めてちゃんとまとめたかも)。
「なんだか難しそう」と毛嫌いしてるみなさんも、その中身を知れば好きになる(可能性を秘めている)のが歴史というものです。
まずは、覗いてみてください。
中身を知って、それでも好きになれなかったらしょうがない。
無理強いなんかしません。
でも、
一回読んで知ってみてください。
「名前は聞いたことあるな…」という人物に、驚きのストーリーが詰まってます。
彼らは、考えられない悲劇を体験してます。
その力で、嘘みたいな逆転劇を起こしてます。
現代人と変わらない感情で一喜一憂してます。
現代人にはない強い決意を持ってます。
過去(歴史)を知れば、未来が変わります。
「子供にも大人にも、戦国武将の超絶カッコいい姿の一端でいいから見てほしい」
そんな思いで書き上げた1冊です。
「そうは言っても中身がわからないと……」
と、お思いの方もおられることでしょう。
ですので、戦国武将の姿の一端の、さらに一端ををご覧ください。
『時空を超えて面白い! 戦国武将の超絶カッコいい話』に入ってるエピソードを1つご紹介します。
編集の方や校正さんが入る前の文章なんで、レアっちゃレアです。
「そんなもんは読まなくても買うよ!」
という男前(もち、女性も含む)は、すぐ購入してください^ ^
それでは、どうぞ。
「戦国時代は信長に始まり、信長に終わる」
っていう言葉があるぐらいでもいいなーと思ってしまうほど、織田信長は戦国時代に欠かせない人物です。
戦国の世に颯爽と登場し、旧来の常識をぶち破りながら、天下統一を目指した武将。
信長がいたから戦国が大きく動いたし、信長がいたからこんなにおもしろい時代になった。これは間違いありません。
全国デビュー戦が『桶狭間の戦い』で、
生涯の締めくくりが『本能寺の変』。
もう、時代の中心に身を置くために生まれてきたような人です。
公演タイトル『戦国時代』、主演・織田信長。
って感じ。
歴史をそんな知らない人でも、織田信長の名前は絶対耳にしたことがあるし、多少のデータは持ってる
んじゃないでしょうか。
そんなスーパー有名人、織田信長。
みなさんのイメージはどんな感じでしょう?
「戦国の革命児」
「独創的なアイデアマン」
「西洋への理解早め」
「なんかタイムスリップしたり、シェフいたりする」
というようなポジティブ系(最後のはカテゴリー違いますが)のものも、もちろんありますが、おそらくは
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
に代表されるように、“怖い人”みたいなイメージが先行する人の方が多いかもしれません。
比叡山焼き討ちしてる。
神仏を恐れない所業。
自分に歯向かう者は、女、子供でも容赦しない。
数万という人間を殺している。
気にくわない部下がいるとリストラする。
パワハラ。
殺す。
独裁者。
殺す。
冷酷。
殺す。
とにかく殺す。
どこまでいっても残忍で、非道いことをする人。
やはりこれが信長につきまとうイメージだと思います。
しかし、意外と言ってはなんですが、信長にも心温まるエピソードや、優しい側面をのぞかせるお話がけっこう残ってるんです。
その一つを紹介しますので、読み終わったら「意外だな」って言ってください。
もちろん言わなくても大丈夫です。
このエピソードに関係してくるのは、
豊臣秀吉
と、
その妻のねね(”おね”とか”ねい”とか、呼び方が定まってませんが、ここでは”ねね”でいきます)。
秀吉が、”羽柴藤吉郎秀吉”と名乗り、信長に仕えていた頃のお話です。
信長のもとでどんどん出世をしていき、ついには長浜城(滋賀県)というお城を築き、一国一城の主となった秀吉。
それから数年後、
信長は信長で安土城(滋賀県)という、とんでもなく豪華なお城を造り始めます。
そんな信長のもとを、秀吉の妻・ねねが訪れてきた時のことです。
来訪の理由は、
「長浜の土地を与えてもらったことへの、あらためてのお礼」
であったり、
「そんなこんなでひさびさにご挨拶来ましたー」
的なものだったと思います(おそらく)。
そこで信長とトークするねねさん。
話題はだんだん、夫・秀吉の浮気癖について展開していきます(おそらく)。
ねね「あのチビザル、私に対して不満とか言いやがるんです! どのツラ下げてコメントしてんだって感じです! それでさらに浮気まで!! マジで『は?』です。バリうざです。テメーの顔面確認してから、ナメたまねしろ! って言いたい! それに…」
信長に思いっきりグチるねねさん(セリフは全編想像です)。
不満が溜まりに溜まっていたのか、信長の「最近どう?」的な誘い水があったのかはわかりませんが、夫の上司に夫の浮気性をブチまけます(おそらく)。
しかもただの上司じゃありません。
今で言う、夫が勤める会社の社長に対し。
さらに言うと、自ら第六天魔王を名乗り、自他ともに認める殺戮の王者(そんな風に思ってたかは知らないけど)、
織田信長にです。
従来の信長のイメージからいくと、
「しょーもない話を聞かせて、オレの耳を汚すな」
なんて言って、その場でねねをバッサリ斬っても不思議じゃありません。
斬るのは行き過ぎにしても、部下の夫婦の痴話げんかなんかには、1ミリも興味を示さないに決まってる。
では、実際の信長はどう対応したか。
ねねさんにお手紙書いてます。
彼女が訴えたことに対し、手紙で丁寧に返答してるんです(ねねさんが信長を訪ねた時期や理由、秀吉の浮気をグチった、というのがなんとなくわかってるのは、この手紙が残っているから。逆に言うと、この手紙からしか推察できないから、全部”おそらく”です)。
この時点で残虐非道な信長のイメージ変わりませんか?
今よりも上下の関係がうん! っと厳しい時代に、部下の奥さんに、しかもプライベートな悩みに対し、手紙を送ってるんです。
そして、その内容がこれまた想像とはズレると思うので、ひとまずご覧ください。
「この度はこの地を初めて訪ねてくれ、お会いできて嬉しかった。
特に、様々なお土産を持ってきていただき、その美しさは素晴らしすぎて、ここでは書き尽くせないほどです。
祝儀代わりに、こちらからも何かを差し上げようと思いましたが、あなたからの品物があまりに見事なので、この気持ちを表せる手段がなく、今回は品物を贈るのをやめておきます。
次に来られた時に、お返しをしようと思います。
とりわけ、あなたの見た目、容姿が、以前お会いしたときより10のものが20になるほど美しくなっている。
藤吉郎(秀吉)があなたに対し、しきりに不満を漏らしているとのこと、言語道断けしからんことだ。
どこを探し回っても、あなたほどの女性は、もう二度とあのハゲネズミ(秀吉)に見つけることはできないでしょう。
ですので、これからは、立ち振る舞いに十分注意し、いかにも奥さんらしくドッシリ構えて、嫉妬に狂ったりしてはいけません。
ただし、旦那を注意するのは女性の役目なので、言うべきことを全部言ってしまわないように取り扱うのがいいでしょう。
なお、この手紙を羽柴(秀吉)に見せるようお願いします。」
紳士。
バリバリに心優しいジェントルマン。
行く手をさえぎる者を八つ裂きにしていく人が書いたとは思えない。
それほど相手のことを思いやった文章です。
会えた喜びから始まり、お土産の素晴らしさを褒めるという細やかな配慮。
「お返しが思いつかないから今度また」
は、イコール
「またいつでもおいで」
をほのめかしている文だと思います。
そして、話題はねねさんの美貌に移り、
「元からキレイだったのに、今は倍になるくらい美しくなっている」
と褒めちぎります。
さらに、
「ハゲネズミにはもったいない」
と、秀吉をディスった上で、
「あなたはそれほど美しい」
の強調。
現代の日本人男性で、ここまで堂々、かつ、さりげなく、女性を褒めることのできるフェミニストが一体何人いるんでしょう?
もちろん、キッチリ秀吉のことも怒っています。
で、ここからが信長の腕の見せ所です。
散々ねねさんの言い分を全肯定した上で、彼女の改善点をつついています。
「オレはあなたの味方だ」を植え付けといて、ねねさんに聞く耳を持たせる態勢を作ってるんですね(多分)。
「旦那のグチをわめき散らすなんてみっともないよ。あなたは美人なんだから堂々としてればいいんだ。夫に対して文句を言うのはいいけど、思ってることを全部言ってしまわない方がうまくいく」
と、ねねさんを軽くたしなめてます。
しかしこれにしても
「夫婦仲をコントロールできるのはあなたなんだよ」
と、ねねさんを立ててるようにも捉えられる文です(ちと言い過ぎかな)。
手紙の締めくくりには
「この手紙を秀吉にも見せといて」
という一文と、
そのあとには『天下布武』の印が押されています。
『天下布武』は信長の掲げるスローガン。
その印が押されてるってことは、なんとこの手紙、”公式文書”なんです。
部下のプライベートな問題に公式文書。
権力使ってねねさんの味方です。
ビビったと思います、秀吉。
ねね「これ読んでみろ!」
秀吉「なんだやぶからぼーに。この手紙がどう……え、信長様!? ………メッチャ怒られてる……しかも正式な”命令”として……」
ねね「(『どうだ』の表情)」
秀吉「なんだその勝ち誇った顔は!」
ねね「わかったか! こっちにゃ信長さんがついてんだよ!」
秀吉「うっせー! オメーもちょっと叱られてるじゃねーかよ!」
ねね「うっせー! ちょっとだろが!」
この会話はデタラメにしても、ねねさん「アガる」、秀吉「ヘコむ」の構図はあったかも。
ただ、秀吉にしてみれば、正式な命令にされたことで、ねねにボロクソに言われて生活を改めるより、
「まぁ、信長様の命令なら仕方ねーな」
と、ギリギリのプライドを保つことができたかもしれません。
いかがでしょう。
「意外だな」いただけたでしょうか。
信長は、政治でも戦いでも当たり前を疑い、昔ながらのやり方が理にかなってなければ、即座に違う方法を求めた武将です。
その姿勢は人とのコミュニケーションにも表れています。
身分の低い者とも普通に会話したし、能力があれば重要な仕事も任せる。
秀吉はまさにその典型例です。
肩書きや身分で人を判断せず、その人間の本質を付き合っていた信長。
確かに、権力を隠れみのにしているヤツからすれば、怖い存在だったでしょうね。
信長にはその手の威圧が一切通じないんですから。
逆に言えば、道理が通ったことを主張する人の話にはいくらでも耳を傾けるし、その人のことを守ってあげたりもする。
それがたとえ、自分に全く関係のない”夫の浮気話”だとしてもです。
合理主義者の信長は、家庭がゴタついた秀吉が仕事に支障をきたし、織田家全体のマイナスになると考えて、ケンカの仲裁に入ったのかもしれません。
そうだとしても、結果的にはねねさんを救って、秀吉の家庭も救っているわけですから、これは信長の優しい一面と言ってもいいんじゃないでしょうか。
確かに信長は人を殺してます。
でもだからと言って、『この男には血も涙もない」決めつけるのはいかがなもんでしょう。
人にはいろんな側面があって、それら全部でその人です。
一方向からしか歴史や人を見ない。それって冒涜だし、あきれるほどバカな行為です。
最後に。
信長がねねへ宛てた手紙。最初はゆったりと行間をとってるんですが、思い溢れたのか、後半メッチャ行間詰まってます。
手紙あるあるですね。かなりかわいい。
ちなみに、この文章はパソコンで書いてるから行間は均等ですが、気持ちの上では最後の方、行間詰まりまくりです。
おわり。
よかったらこのブログをシェア、もしくは文庫を予約、もしくはシェア&予約、していただきたい。
お願いします。
先に言っておきます。
ありがとうございます。