秀吉は何故売れているのかなぁ~、その秘密は・・。







。かけ引き も出て来る物です。とはいえ、日本の権力社が今している事は、軍的な従属体制の維持で、自立を拒み続けている → たいへん情けない物です →





















田信長は朝廷とは 少し距離を置き ⇔ 豊臣秀吉は朝廷に近づく。








ー?→
将軍・徳川家康が 『お怒り』になった 「鐘 (カネ) / 梵鐘 (ぼんしょう) 」 に記された文字とは、
鐘銘文中に「国家安康」『君臣豊楽』という部分で、「国家安康 (こっかあんこう) 」は、徳川家康の名前を分断し、『君臣豊楽 (くんしんほうらく) 』は、豊臣家の繁栄を願い、徳川家が没落するように呪いが込められている。

━↓─━─扉─
━─↓━
1603年
徳川家康が朝廷より『』と称号を得たと同じ年に、袋中上人 (浄土宗の僧) が琉球にやって来ました。
浮島 (那覇の港) の松山という地です。
袋中上人は京太郎とともに念仏廻り (エイサー) を琉球に伝えた人と知られています。
京太郎は念仏者 (ニンブチャー) と呼ばれ、太鼓を叩いて念仏札を配り、沖縄島の各地を歩いていました。
*その後、1609年に日本と琉球は戦争をします。
諸説ありますが、
京太郎には
間者説』があります。
京太郎が歩いた「沖縄地図」が日本に渡っており、琉球の港や武器庫など詳細に記されていた。と説があります。
*その「沖縄地図」を見た日本軍が1609年、琉球に侵攻
琉球は日本に敗れ、1609年以降 ~ 中国と日本の中間色になりました。
ー?→







その 「万国津梁の鐘」には『碑文』が書かれていました。
沖縄県の応接室 (来賓場) には、鐘の碑文があるといいます。

―…
―…
→
→

安倍政権を支える教科書団体 / 関係者は「むかし中国政府 (明朝 / 清朝) の覇権体制 (冊封体制) 下に入った琉球は『土下座外交』をしており、琉球の『守礼門』は反日の象徴」と述べていました。




も腹立たしく思えて来ました。


秀吉となら結婚してもいい
うことで気に入られて嫡子、伊達政宗の乳母となります。
鳴かぬなら埋めてしまえ秀吉
ます。その妙見さまが一年前に私の元に来られました。
わけですから、何らかの形でわかる方には広く伝えてほしいと言う事なのでしょう。今回お創りした香り水を通じて、妙見の歴史に再び陽があたることは自然な流れとして感じております。


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近年解読されたイエズス会文書館所蔵の夥しい書簡などの史料から、当時のイエズス会が密かに推進していた日本の化戦略の全貌がようやく浮かび上がってきた。
これらの衝撃的な文書は、研究者である高瀬弘一郎博士がイエズス会本部の文書館から発見して明らかになったものであるが、その後(バチカンにとり)不都合があってか極秘扱いとなり、残念ながら現在は外部に一切公開されていないということである。
もちろん現行の歴史教科書にも決して紹介されることのない、西洋によるアジア侵略の貴重な史料ということになる。
戦後のGHQによる70年前の焚書作業では、こうした類の西洋冒涜の歴史書は事実が書かれていようともすべて公から排除され破棄されたのである。
当然これらは日本人が知ってはいけない歴史情報ということになる。
かって戦国時代の日本において宣教活動を行っていたイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、1582年12月14日付けでマカオからフィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに次のような書簡を出している。
「私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、断言することができる。何故なら、国民は非常に高貴且つ有能にして、理性によく従うからである。
尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。
しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるだろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある。」
文中にある「征服事業を企てる対象としては不向きである」とはどういうことなのか?そして、「シナにおいて陛下が行いたいと思っていることのために」とは、一体何のことなのか?
翌年の1583年、マニラ司教サラサールがスペイン国王に送った書簡(6月18日付)では次のような展開になってくる。
「私がこの報告書を作成した意図は、シナの統治者達が福音の宣布を妨害しているので、これが、陛下が武装してかの王国を攻め入る事の出来る正当な理由になると云う事を、陛下に知らせる為である。(中略)そしてこのことを一層容易に運ぶには、シナの直ぐ近くにいる日本人がジナ人の仇敵であつて、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを、陛下が了解されるとよい。そしてこれが効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、この点日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起すように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせる事である。」
書簡の記述にある様に「陛下が武装してかの王国を攻め入る事の出来る正当な理由」という展開からみてとれることは、明らかにこれらはイエズス会側の中国や東アジアへの軍事的侵攻を示唆したものであることが分かる。
さらにイエズス会日本布教長フランシスコ・カブラルが1584年にスペイン国王へ宛てた書簡には次のようにある。
「私の考えでは、この政府事業(明の化)を行うのに、最初は7千乃至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分であろう。・・・日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)達が容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるだろう。彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1エスクード半または2エスクードの給料で、暿暿としてこの征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう」
ここらは一貫して具体的記述になってきていることが見て取れる。
どうやら彼らからみて勇敢な戦闘員である日本人は、中国を化する事業に際して彼らが必要とする傭兵部隊としての要件が揃っていることをここではことさら強調しているようである。
イエズス会日本準管区長コエリョが1585年3月3日付けでイエズス会布教長アントニオ・セデェーニョに宛てた手紙の抜粋には次のようにある。
「陛下の義務、及び陛下がシナを征服するために望んでいる日本貿易に大いに関係することだからである。・・・・総督閣下に兵隊・弾薬・大砲、及び兵隊のための必要な食料、1、2年食料を買うためのかねを充分搭載した3,4隻のフラガータフ船を日本のこの地に派遣していただきたい。・・・・他の異教徒に大いに悩まされている何人かのキリスト教徒の領主を支援出来るようにするためである。・・・・ただ安全に渡来するためには大艦隊が必要である。・・・・
当地のキリスト教徒の領主の支援を得て、この海岸全体を支配し、服従しようとしない敵に脅威を与えることが出来るのは疑いない。この陛下の援軍が派遣されることにより、・・・・第一に、これらキリスト教徒の諸侯とその家来は、・・・陛下の援助が得られ・・・・・一層信仰を強固なものにする。第二に、異教徒とは・・・脅威と驚きを抱き、・・・・改宗を望む者に対する妨害をしようとはしなくなるであろう。第三に、異教徒はキリスト教徒が陛下から援助を受けるのを見て、・・・・改宗するであろう。もしも国王陛下の援助で日本66カ国凡てが改宗するに至れば、フェリペ゚国王は日本人のように好戦的で怜悧な兵隊をえて、一層容易にシナを征服することが出来るであろう。」
いよいよイエズス会のアジア戦略の最終目標は極東の中国の征服であったことが次第に明確になってくる。
宣教事業と化とは、まさに車の両輪のように推し進められていったことになる。
日本に派遣された宣教師らはその基本戦略を遂行すべく、忠実に軍事的観点から報告書を作成し度々マニラやスペイン本国の上部組織に送っていた。
日本に15年滞在したペドロ・デ・ラ・クルスが1599年2月25日付けでイエズス会総会長へ出した書簡には次のように報告されている。
「日本人は海軍力が弱く、兵器が不足している。そこでもしも国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国を襲うことが出来よう。この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち九州又は四国を包囲することは容易であろう。そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るであろう。・・・
このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るようにする。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適している。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好な位置にある。・・・
(日本国内に防備を固めたスペイン人の都市を建設することの利点について)日本人は、教俗(教会と政治と)共にキリスト教的な統治を経験することになる。・・・
多くの日本の貴人はスペイン人と生活を共にし、子弟をスペイン人の間で育てることになるだろう。・・・
スペイン人はその征服事業、殊に機会あり次第敢行すべきシナ征服のために、非常にそれに向いた兵隊を安価に日本から調達することが出来る」
日本の国内事情を知悉したペドロ・デ・ラ・クルスが、
はっきりとその軍事的侵略の具体的手順を明示しているだけでなく、
ここではその有力な軍事拠点を九州の天草島、志岐を候補として挙げていることに
最も注目しなければならない。
これは単なる机上の空論ではなくて、九州天草周辺では実際にこの戦略に沿って重点的に宣教事業が押し進められ強固な組織づくりが成されていった事実がある。
同時にこの地方への軍事物資の補給と備蓄、密かにキリシタン信徒らの傭兵訓練、練兵とが秘密裏に、且つ巧妙に行われていった。
キリシタン信徒によるコンフラリヤ(ConfrariadeMisericordia:信徒集団組織)組織作りが村々に網の目のように根を張っていった。
その結果は後年の天草・島原の大乱として一気に噴出することとなる。
このように、時代を追ってイエズス会の中でやり取りされたいくつかの書簡を見ていくと、これは聖職者というよりは軍人か軍事顧問団の諜報活動と錯覚しそうである。
まさに法衣をまとった戦士であるイエズス会の宣教師の姿が垣間見える部分といえよう。
そしてこれこそは、長崎代官村山等安がイエズス会を「この方法によって日本をイスパニア国王に服従させるため、彼らの教えに従うように説いているのである」として厳しく糾弾していたように、彼らは始めから侵略計画を持って日本へ渡来してきていた事実が浮かび上がってくる。
渡欧した千々石ミゲルとて少年使節としての長い航海のあいだに、中継地であった占領されたの様子は自分の目で確認していたことであり、行く先々で日本や中国、朝鮮各地から送られてきた多くの奴隷の境涯に落とされた人々の悲惨きわまる姿にも度々遭遇していた。
当時のミゲル自身はイエズス会が主導する宣教事業というものの実態を知って、少なからず驚愕し打ちのめされた想いであったであろう。
長崎代官村山等安に、日本人奴隷の実態とキリスト教国の日本侵略の野望についてはっきりと伝えたのは棄教した千々石ミゲルであった。
等安自身は、長崎周辺で拡大していくイエズス会のコンフラリヤ:信徒集団組織)勢力に強い警戒感を持っていて、それに対抗すべく穏健な別会派のスペイン系托鉢修道会の布教活動を熱心に支援し続けていた。
これに対して後にローマ留学から帰国した長崎の教区司祭トマス荒木は、むしろ托鉢修道会(フランシスコ会)こそが日本侵略を画策していると異なる意見を等安の息子徳安らに表明して憚らなかった。
もとよりポルトガル船と共に渡来してきたキリスト教宣教師の狙いは、宣教事業の推進と異教徒の駆逐、ないしは奴隷化であったが、彼らはまさしく侵略の尖兵としてアジア地域に送り込まれてきたというべきであろう。
異教徒の奴隷化は彼らの教義に基づくものであり、当時は家畜同様の扱いが当たり前であった。
それ以外にも、彼らにはヨーロッパでは入手できない香辛料や絹織物、生糸、鉱物資源などの貴重産品の調達仲介業や占領地の傭兵要員の確保も同時に課せられていた。
海外遠征が成功して新航路が発見され新しい領土()を獲得するごとに彼らは、そこでの収奪や奴隷を扱う仲介貿易によってアジア市場でも莫大な利益を上げることができた。
宣教師が関わる仲介取引による直接の利益はもとより、貿易商からの寄付によって宣教活動の多額の経費そのものは維持されていたが、これらには常にローマ教皇の権威と強力な国王の保護権とが行使されていた。
特に日本や中国、朝鮮の奴隷の買い取り値は、西洋地域との価格差が5倍以上もの開きがあり、商人らは各地の奴隷市場においての転売で巨額の差益を得ることができたのである。
宣教事業の拠点として、またアジア最大の奴隷市場がマカオに作られた。
—— —— —— —— —— ——
参考資料:引用文献
「キリシタン時代の研究」高瀬弘一郎著 岩波書店,1977
「インディアスの破壊に ついての簡潔な報告」ラス・カサス著 染田 秀藤訳 岩波書店 1976
「侵略の世界史」清水馨八郎 祥伝社 1999
「近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で」池本幸三/布留川正博
下山晃共著 人文書院、1995
「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」岸田秀著 新書館 2007
「新・歴史の真実」前野徹著 講談社 2005
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳)全12巻
1 織田信長篇Ⅰ「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
2 織田信長編Ⅱ「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
3 織田信長篇Ⅲ「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
4 豊臣秀吉篇Ⅰ「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
5 豊臣秀吉篇Ⅱ「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
6 大友宗麟篇Ⅰ「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
7 大友宗麟篇Ⅱ「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
8 大友宗麟篇Ⅲ「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
9 大村純忠・有馬晴信篇Ⅰ「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇Ⅱ「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇Ⅲ「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇Ⅳ「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)
「キリシタン時代の文化と諸相」 高瀬弘一郎著 八木書店 2001
「キリシタン時代の貿易と外交」 高瀬弘一郎著 八木書店 2002
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― ② 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― ③ 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「キリシタンの世紀」高瀬弘一郎 岩波書店 1993 号
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策-ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって- 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3号 2005 狹間芳樹著
「ヨーロッパ≪普遍≫文明の世界制覇 鉄砲と十字架」中川洋一郎著 学文社 2003
「近代資本主義の成立と奴隷貿易」西山俊彦 カトリック社会問題研究所「福音と社会」-教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)-4月30日213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)を もたらしたのではないのか
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策-ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって-55アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「原城の戦いと島原・天草の乱を考え直す」丸山雍成編『日本近世の地域社会論』85-137頁所収 服部英雄著
「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著
「歴史物語アフリカ系アメリカ人」 猿谷要 朝日新聞社
「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店
「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著) 徳間書店 2008
「近代資本主義の成立と奴隷貿易」西山俊彦 カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
秀吉 人は着た目が9割
というタイトルの文庫本が発売されます。
自己紹介が遅れました。
よしもとクリエイティブ・エージェンシーにて、ブロードキャスト!!というコンビで活動をしている房野史典と申します。
戦国時代や幕末が好きで、趣味が高じて、本を2冊出版しております。
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「本屋で見かけたことある!」
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「知り合いがSNSで投稿してた!」
「1ミリも知らねーぞ……」
様々なご感想をお持ちでしょうが、上記2冊の著者をやらせていただいております。
そんな私が、この度趣味が高じすぎて、新しい本を出すことになりました。
それが既出のコチラ↓
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でございます。
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んじゃないでしょうか。
に代表されるように、“怖い人”みたいなイメージが先行する人の方が多いかもしれません。
比叡山焼き討ちしてる。
神仏を恐れない所業。
自分に歯向かう者は、女、子供でも容赦しない。
数万という人間を殺している。
気にくわない部下がいるとリストラする。
パワハラ。
殺す。
独裁者。
殺す。
冷酷。
殺す。
とにかく殺す。
どこまでいっても残忍で、非道いことをする人。
やはりこれが信長につきまとうイメージだと思います。
しかし、意外と言ってはなんですが、信長にも心温まるエピソードや、優しい側面をのぞかせるお話がけっこう残ってるんです。
その一つを紹介しますので、読み終わったら「意外だな」って言ってください。
もちろん言わなくても大丈夫です。
このエピソードに関係してくるのは、
豊臣秀吉
と、
その妻のねね(”おね”とか”ねい”とか、呼び方が定まってませんが、ここでは”ねね”でいきます)。
秀吉が、”羽柴藤吉郎秀吉”と名乗り、信長に仕えていた頃のお話です。
信長のもとでどんどん出世をしていき、ついには長浜城(滋賀県)というお城を築き、一国一城の主となった秀吉。
それから数年後、
信長は信長で安土城(滋賀県)という、とんでもなく豪華なお城を造り始めます。
そんな信長のもとを、秀吉の妻・ねねが訪れてきた時のことです。
来訪の理由は、
「長浜の土地を与えてもらったことへの、あらためてのお礼」
であったり、
「そんなこんなでひさびさにご挨拶来ましたー」
的なものだったと思います(おそらく)。
そこで信長とトークするねねさん。
話題はだんだん、夫・秀吉の浮気癖について展開していきます(おそらく)。
ねね「あのチビザル、私に対して不満とか言いやがるんです! どのツラ下げてコメントしてんだって感じです! それでさらに浮気まで!! マジで『は?』です。バリうざです。テメーの顔面確認してから、ナメたまねしろ! って言いたい! それに…」
信長に思いっきりグチるねねさん(セリフは全編想像です)。
不満が溜まりに溜まっていたのか、信長の「最近どう?」的な誘い水があったのかはわかりませんが、夫の上司に夫の浮気性をブチまけます(おそらく)。
しかもただの上司じゃありません。
今で言う、夫が勤める会社の社長に対し。
さらに言うと、自ら第六天魔王を名乗り、自他ともに認める殺戮の王者(そんな風に思ってたかは知らないけど)、
織田信長にです。
従来の信長のイメージからいくと、
「しょーもない話を聞かせて、オレの耳を汚すな」
なんて言って、その場でねねをバッサリ斬っても不思議じゃありません。
斬るのは行き過ぎにしても、部下の夫婦の痴話げんかなんかには、1ミリも興味を示さないに決まってる。
では、実際の信長はどう対応したか。
ねねさんにお手紙書いてます。
彼女が訴えたことに対し、手紙で丁寧に返答してるんです(ねねさんが信長を訪ねた時期や理由、秀吉の浮気をグチった、というのがなんとなくわかってるのは、この手紙が残っているから。逆に言うと、この手紙からしか推察できないから、全部”おそらく”です)。
この時点で残虐非道な信長のイメージ変わりませんか?
今よりも上下の関係がうん! っと厳しい時代に、部下の奥さんに、しかもプライベートな悩みに対し、手紙を送ってるんです。
そして、その内容がこれまた想像とはズレると思うので、ひとまずご覧ください。
「この度はこの地を初めて訪ねてくれ、お会いできて嬉しかった。
特に、様々なお土産を持ってきていただき、その美しさは素晴らしすぎて、ここでは書き尽くせないほどです。
祝儀代わりに、こちらからも何かを差し上げようと思いましたが、あなたからの品物があまりに見事なので、この気持ちを表せる手段がなく、今回は品物を贈るのをやめておきます。
次に来られた時に、お返しをしようと思います。
とりわけ、あなたの見た目、容姿が、以前お会いしたときより10のものが20になるほど美しくなっている。
藤吉郎(秀吉)があなたに対し、しきりに不満を漏らしているとのこと、言語道断けしからんことだ。
どこを探し回っても、あなたほどの女性は、もう二度とあのハゲネズミ(秀吉)に見つけることはできないでしょう。
ですので、これからは、立ち振る舞いに十分注意し、いかにも奥さんらしくドッシリ構えて、嫉妬に狂ったりしてはいけません。
ただし、旦那を注意するのは女性の役目なので、言うべきことを全部言ってしまわないように取り扱うのがいいでしょう。
なお、この手紙を羽柴(秀吉)に見せるようお願いします。」
紳士。
バリバリに心優しいジェントルマン。
行く手をさえぎる者を八つ裂きにしていく人が書いたとは思えない。
それほど相手のことを思いやった文章です。
会えた喜びから始まり、お土産の素晴らしさを褒めるという細やかな配慮。
「お返しが思いつかないから今度また」
は、イコール
「またいつでもおいで」
をほのめかしている文だと思います。
そして、話題はねねさんの美貌に移り、
「元からキレイだったのに、今は倍になるくらい美しくなっている」
と褒めちぎります。
さらに、
「ハゲネズミにはもったいない」
と、秀吉をディスった上で、
「あなたはそれほど美しい」
の強調。
現代の日本人男性で、ここまで堂々、かつ、さりげなく、女性を褒めることのできるフェミニストが一体何人いるんでしょう?
もちろん、キッチリ秀吉のことも怒っています。
で、ここからが信長の腕の見せ所です。
散々ねねさんの言い分を全肯定した上で、彼女の改善点をつついています。
「オレはあなたの味方だ」を植え付けといて、ねねさんに聞く耳を持たせる態勢を作ってるんですね(多分)。
「旦那のグチをわめき散らすなんてみっともないよ。あなたは美人なんだから堂々としてればいいんだ。夫に対して文句を言うのはいいけど、思ってることを全部言ってしまわない方がうまくいく」
と、ねねさんを軽くたしなめてます。
しかしこれにしても
「夫婦仲をコントロールできるのはあなたなんだよ」
と、ねねさんを立ててるようにも捉えられる文です(ちと言い過ぎかな)。
手紙の締めくくりには
「この手紙を秀吉にも見せといて」
という一文と、
そのあとには『天下布武』の印が押されています。
『天下布武』は信長の掲げるスローガン。
その印が押されてるってことは、なんとこの手紙、”公式文書”なんです。
部下のプライベートな問題に公式文書。
権力使ってねねさんの味方です。
ビビったと思います、秀吉。
ねね「これ読んでみろ!」
秀吉「なんだやぶからぼーに。この手紙がどう……え、信長様!? ………メッチャ怒られてる……しかも正式な”命令”として……」
ねね「(『どうだ』の表情)」
秀吉「なんだその勝ち誇った顔は!」
ねね「わかったか! こっちにゃ信長さんがついてんだよ!」
秀吉「うっせー! オメーもちょっと叱られてるじゃねーかよ!」
ねね「うっせー! ちょっとだろが!」
この会話はデタラメにしても、ねねさん「アガる」、秀吉「ヘコむ」の構図はあったかも。
ただ、秀吉にしてみれば、正式な命令にされたことで、ねねにボロクソに言われて生活を改めるより、
「まぁ、信長様の命令なら仕方ねーな」
と、ギリギリのプライドを保つことができたかもしれません。
いかがでしょう。
「意外だな」いただけたでしょうか。
信長は、政治でも戦いでも当たり前を疑い、昔ながらのやり方が理にかなってなければ、即座に違う方法を求めた武将です。
その姿勢は人とのコミュニケーションにも表れています。
身分の低い者とも普通に会話したし、能力があれば重要な仕事も任せる。
秀吉はまさにその典型例です。
肩書きや身分で人を判断せず、その人間の本質を付き合っていた信長。
確かに、権力を隠れみのにしているヤツからすれば、怖い存在だったでしょうね。
信長にはその手の威圧が一切通じないんですから。
逆に言えば、道理が通ったことを主張する人の話にはいくらでも耳を傾けるし、その人のことを守ってあげたりもする。
それがたとえ、自分に全く関係のない”夫の浮気話”だとしてもです。
合理主義者の信長は、家庭がゴタついた秀吉が仕事に支障をきたし、織田家全体のマイナスになると考えて、ケンカの仲裁に入ったのかもしれません。
そうだとしても、結果的にはねねさんを救って、秀吉の家庭も救っているわけですから、これは信長の優しい一面と言ってもいいんじゃないでしょうか。
確かに信長は人を殺してます。
でもだからと言って、『この男には血も涙もない」決めつけるのはいかがなもんでしょう。
人にはいろんな側面があって、それら全部でその人です。
一方向からしか歴史や人を見ない。それって冒涜だし、あきれるほどバカな行為です。
最後に。
信長がねねへ宛てた手紙。最初はゆったりと行間をとってるんですが、思い溢れたのか、後半メッチャ行間詰まってます。
手紙あるあるですね。かなりかわいい。
ちなみに、この文章はパソコンで書いてるから行間は均等ですが、気持ちの上では最後の方、行間詰まりまくりです。
おわり。
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