これが、amazarashiだ。
○amazarashi『隅田川』
東京隅田川を舞台に夏の光景と、恐らくは別離したであろう恋人たちの淡い思い出を描く、穏やかで優しい曲。
見たところ難解な語句や表現もなく、歌詞が素直に歌意を表出している。
この平易な曲に、試みに中世日本文学の秘儀的解釈を施してみようと思う。(秘儀的解釈については「研究者列伝 古典研究史 鎌倉期②、②+」を参照。)
別に施す必要は全く無いのだが、最近たまたま「隅田川」に関係する歴史情報がいくつか手許に集まってきたので、なんか書いてみたくなったのでる。
本項では「隅田川文化小史」と題し、この川の文化的歴史を辿ってみようと思う。なおここでは隅田川の地形上の変遷については簡単に説明するにとどめる。
○隅田川文化小史Ⅰ
「隅田川」の名が日本史上に現れるのは、早くは800年代の古記録に「住田河」と見えるのが初めである。しかし呼び方は「すだがわ」「すみだがわ」、表記も「隅田」「住田」「角田」「墨田」「澄田」を使うなど時代によって名称の変動があった。
また流域も現在の配置とは異なり、古くは荒川などを合わせた東京湾に注ぐ利根川下流のいくつかを総称して「すみだがわ」と言っていたようだ。
古代の東京湾は現在の内陸部の奥深くまで入り込み、広大な浅瀬地帯を形成していた。武蔵国・下総国を隔てる無数の河川・湖沼からなる湿地帯は両国の国境となり、官設の渡し場もあった。
ここで唐突だが『伊勢物語』が登場する。都から遠く離れた東国にある「隅田川(河)」の名が人々に広く知られるようになったのには、この物語の影響が大きいと考えられる。
ここから『伊勢物語』の「東下り」と呼ばれる話群の一部を掲載する。
『伊勢物語』第九段
・・・・昔、男ありけり。その男、身をえう(用?)なきものに思ひなして、「京にはあらじ。あづま(東)の方に住むべき国求めに」とて、ゆきけり。・・・・
主人公「男」がこう思うに至った理由は、この段の前に描かれた恋の挫折と見るのが通説である。人間臭い。しかし我が身を「無用のもの」と言う発想はこれが本邦初ではなかろうか。
※amazarashiの楽曲ならば、そこに存在意義の希薄さが表れる。なんか深刻である。
『たられば』・・・・
〈なら僕が消えた方が早いか〉
『奇跡』・・・・
〈無駄に生き長らえる僕
「こんな夜は消えてしまいたい」
とよく思うけれど〉
『伊勢物語』
・・・・なほ(猶)ゆきゆきて、武蔵の国と下総の国との中に、いと大きなる河あり。それを隅田河と言ふ。その河のほとりに群れゐて、思ひやれば、「限りなく遠くも来にけるかな」とわびあへるに、渡守(わたしもり)、「はや舟に乗れ。日も暮れぬ」と言ふに、乗りて、渡らんとするに、みな人、物わびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。
さる折しも、白き鳥の嘴(はし)と脚と赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ、魚を喰ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人、見知らず。渡守に問ひければ、「これなん、みやこどり」と言ふを、聞きて、
「 名にしお(負)はば
いざこと(言)とはむみやこ鳥
わが思ふ人はありやなしやと 」
とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。・・・・
京に思う人/わが思う人・・・・
舟に乗る人々の場合は家族や恋人、主人公「男」の場合は思いを寄せた女性である。
都鳥・・・・ユリカモメとするのが通説。
ユリカモメ・・・・渡り鳥で東京付近には冬季に見られる。現在でも東京臨海部を運行する交通線「ゆりかもめ」の名称の由来になるなど、東京を代表する鳥である。
後世の文芸・芸術に多大な影響を与えた『伊勢物語』に記載されたことで、「隅田川」は「都鳥」と「望郷」「思慕」の感傷を伴う有名な歌枕として知られるようになった。
○隅田川文化小史Ⅱ
この『伊勢物語』の挿話を背景に室町時代に作られたのが能曲『隅田川』。作者は世阿弥の嫡子元雅(もとまさ)で、父世阿弥に将来を嘱望されたが30代で夭折した。しかし彼の遺した能の脚本は、数は少ないながらも優れた作品として今日に伝わる。
少し長いがあらすじを掲げる。
[ 武蔵と下総の国境にある隅田川の渡守が客を待っていると、旅人が来てあとから女物狂いがやってくることを知らせる。
それは我が子を人買いにさらわれて心が乱れた女で、京都からはるばる子を尋ね求め、この東国までさまよい歩いて来たのだった。
女は川辺の鳥を見て船頭に名を尋ね、それが都鳥だと知って『伊勢物語』東下りの故事を思い出す。
「われもまた いざ言問はん都鳥
わが思ひ子は東路にありやなしやと」
と古歌を引いて嘆き、ここまでの遠い旅路を振り返り感慨を催す。
女が旅人たちと対岸に渡る船中で、船頭が哀れな話をして聞かせる。昨年の春、無情な人買いがここに置き去りにした病気の少年があった。名を尋ねると、京都の吉田某の子息梅若丸と言い、間もなく落命したので、人々が墓を作って弔ったというのである。
話を聞いた女が涙ながらに自分こそその子の母だと言うので、渡守も同情して墓に連れて行く。女は墓前で世の無常をじっとかみしめ慟哭するのだった。
夜も更けて人々が念仏を唱えていると、その中に混じって少年の声が聞こえ、幻のように姿が現れる。母親は近づこうとするが、子供はするりとすり抜け消えてしまう。この世あの世と別れ別れになった母子は、手を取り合うことも許されない。
面影が見えつ隠れつするうちに、夜がほのぼのと明けて、少年の姿は全く消え失せる。我が子と見えたのは茫々と草の生い茂る塚で、周りにはただ浅茅が原が広がるばかりであった。 ]
平安時代の伝承に基づき『伊勢物語』のエピソードを部分的に用いながら、子の無事を願いながらも叶わなかった母親の悲哀に焦点を絞ることで優れた脚本に仕上げている。
(狂女物はハッピーエンドになることが多いが、ここでは悲劇的結末を迎える。)
この演目は近世の浄瑠璃や歌舞伎にも影響を与え、多くの「隅田川物」を生んだ。
また現代にも、能演を見て感動したイギリスの作曲家によって翻案され、オペラ作品『カーリュー・リバー』となって1964年に初演されている。
○amazarashi版『隅田川』
さてここで、amazarashi版『隅田川』に目を戻してみよう。
〈 古い歌 口ずさむたび
それと見紛う 面影をみる
触れないなら いっそ いっそ
消えてください
日暮れて連れあう 街に蝉時雨
繋いだ 手と手を
離さなきゃよかった 〉
どうだろう?もう『伊勢物語』と能曲「隅田川」のことを歌っているようにしか、見えなくなっているのではないか。
もっともらしいことを、さも大事のように説明されると、そのイメージが原作の上に拭いがたく張り付いてしまう。
心理学の例えによく出される、「これから5分間、青い白クマのことだけは考えないで下さい」の思考実験。
あるいは、「人づきあいは第一印象で決まる」との言説。
そしてamazarashiも曲中で歌っているではないか、
〈 心の中 ずっと ずっと
張り付いています 〉(←曲解)
人間心理として、初対面時の印象や奇天烈なイメージを提示されるともう、そうとしか考えられなくなるのである。これぞ秘儀的解釈の魔力!
しかしamazarashiは絶対にンなこと想定してない。ただ私が思いついたことを書き殴っているだけなのである。中世前期の注釈家たちも、こんなノリで秘儀的解釈を捻出したのであろうか。
※この曲の公式版はYouTube上にアップされていません。アルバム『爆弾の作り方』に収録されているので、興味があったら探して聴いてね~。
※参考図書
『新校注 伊勢物語』
片桐洋一/田中まき 和泉書院
『能狂言事典』 平凡社
『能の本』 辰巳満次郎 西日本出版社
amazarashi 毎日の、毎日が、変わる。
人気企業ランキングからは見えてこない、ホントのamazarashi。
↓
前日差 -0.2kg
TOTAL -12.0kg
「最近、美術館に行ってないな」と思い、タブレットのアプリを見ていて、「君達は何をしているのか?」と笑った。
こちら
ボアソナート氏のお顔、初めて見たわ。
行かないですけどね(失礼)。
今日のBGM
【隅田川】by amazarashi
amazarashi 関連ツイート
また今日も逃げ果たせなかったと
うな垂れて玄関のドアを開ける
《夜の歌》4/5 #amazarashi
ピアノを前にして じっとしてられなかった おもむろに鳴らす午前三時のニ長調
「ピアノ泥棒」 #amazarashi