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信仰は、見えざるものへの愛、不可能なもの、ありそうにないものへの信頼である。 ゲーテ 「格言と反省」
写真引用元:
●はじめに
信仰とは
① 神仏などを信じ崇あがめること。
経験や知識を超えた存在を信頼し、
自己をゆだねる自覚的な態度をいう。
② 人を信じうやまうこと。(大辞林より引用)
古から人は抗えない大自然や運命と自分の人生との折り合いをつけるために信仰を持ちました。
それは時には宗教だったり自然崇拝だったりしました。形式が違うとはいえ、見えざるものへの畏怖や愛、そして信頼がそこにはあります。
ここ、沖縄でもそのような信仰が息づいています。それは大きな枠で言えば自然崇拝に近いものですが琉球に特有の神と混じり合う事により独特な景色を生み出す事になります。
前回の記事、にも書きましたが沖縄の城は戦争のための拠点という位置づけよりも「御嶽(ウタキ)」と呼ばれる信仰の場所を内包しており、その事の方が重要であったとのでは?いう事を書きました。
今回はその「御嶽(ウタキ)」について徒然と書いてみたいと思います。
●そもそも「御嶽(ウタキ)」とは?
「御嶽(ウタキ)」は琉球王国(第二尚氏王朝)が制定した琉球の信仰における聖域の総称です。実はそれ以前はさまざまな呼び方が各地方にあったそうです。信仰の概念を統一する事で権力の安定をはかったのでしょうか?(当時は政治と信仰が深く関係していたそうです)
沖縄の信仰は元来、自然崇拝や祖先崇拝が基本となっています。日本の原始宗教に近いのでは?と思います。御嶽はそのような背景をベースにもっているといえます。
御嶽の多くは森の空間や泉や川などの自然です。島そのものであることもあります。
また、御嶽によっては空間の中心にイベあるいはイビ石という石碑があります。でも一度でもイベを見た事のある方は納得するでしょうがイベは、本当にただの石である事が多いです。いわゆる「御神体」的なものではありません。
実はイベは御神体ではなく、は本来は神が降臨する標識と考えられていました。また宮古や八重山地方では、過去に実在したノロの墓を御嶽とし、そのノロを地域の守護神として祭っていることが多く見られるそうです。(一部wikipedia参考)
写真引用:
写真は「藪薩御嶽」です。
●御嶽は男子禁制
沖縄では神に仕えるのは女性の仕事でした。古くから沖縄では霊力は女性の方が男性より強く持つとされてきました。
女性は生まれながらにして神とふれあい、その力をひき出すエネルギーを強く持っていたのです。ですから神に仕える役割を担うのは自然に女性ということになります。
今でも村々のまつりごとや行事に際して、女性の神役は司祭者としての役割を担います。しかし、男性の神役は補佐する側に回るのが一般的である。女の神役は人と神の仲立ちをしたり、神の意志を取りついだりするが、男の神役にはこうした役割は無いのは興味深いです。
でもよく考えると、シャーマンや巫女などは世界的にも女性が主です。これは沖縄だけの考え方ではないのかもしれませんね。女性は直感に優れている人が多いので自然にこのような形になったのでは?というのが私の予想です♪
横道にそれましたが、聖域である御嶽は男子禁制がほとんどです。先に挙げた「藪薩御嶽」も男子禁制です (^_^)
●御嶽の由来
色々と調べてみましたが御嶽がどのように形成されているか?はハッキリしていないそうです。先に書いたように各地で自然発生的に起きた信仰を第二尚氏王朝時代に「御嶽」と制定したという経緯もあるのでしょう。
しかし、有力な説としては御嶽がある場所は元々は集落だったという事です。その証拠として御嶽の近くで生活の後や人骨などが見つかる事が多いからだそうです。
集落の中で自然崇拝や祖先崇拝の観点で「イビ」的な石などを祀るようになり、何らかの理由で集落が廃れても御嶽の機能は残り現代に残っているのではないでしょうか?
●御嶽が現代に生き残る理由
沖縄では、古くからの風習がまだ生活の中に息づいています。それは苦難の多かった沖縄の歴史もあったからかもしれません。
これは私的な意見ですが、本土から移住した方などが沖縄の人の排他的な態度に嫌気をさして帰ってしまうという事を聞く事があります。排他的な側面は否定できませんが、もしかしたらこのような古くからの風習が影響しているかもしれません。
しかし、だからと言って本土の方に対して排他的である事は良い事では全くありませんのでこれは大いに改善される点だと思います。
沖縄における御嶽は先祖を祀る場所です。「んっ?それならお墓はあるのでは?」と疑問に思う方もいるでしょう。でも沖縄の人にとってお墓と御嶽は別物なのです。沖縄の村達は遠い遠い遠い祖先たちを祖霊神であると考えています。
しかもその霊は現在も私達のそばにいて日常の私達を見守ってくれていると強く信じています。この考え方は現代にも脈々と受け継がれています。小さい頃、悪さをしたら、「天国のオジーやオバーが見ているよ」とよく言われたものです。
語弊を恐れずに言うなら、墓や仏壇、御嶽はそれぞれ祖先へアクセスするための別々の入り口という感覚を沖縄の人は自然に持っています。それが御嶽が昔と変わらずに残っている理由だと思います。
●有名な御嶽
御嶽は生活の場でもあったので大小様々なものが存在しています。観光地になっているところもあれば、ひっそりとその役目を終えかけているところもあります。街を歩いていて神社でもお寺でもないのに道端でお供えものやお酒などが置かれている祠のような場所は、ほぼ御嶽です。初めて見る方はきっと驚かれるはずです。そのくらい生活に根付いた場所なのです。
今回は有名な御嶽をいくつか採り上げてみたいと思います。
まずはその歴史から・・・
「琉球開闢七御嶽」
琉球の神話では、日の大神(天にある最高神、日神、天帝)が開闢の神アマミキヨ(アマミク)に命じて島作りをさせたと言われています。
アマミキヨはこの命を受け、沖縄本島を作り、そこに9つの聖地(出典「中山世鑑」)7つの森(出典「聞得大君御規式の次第」)を作ったとされています。
現在では、アマミキヨによって作られた聖地のうち7つが、琉球開闢七御嶽として語り継がれ、琉球の信仰においてもっとも神聖な御嶽として位置づけられています。
このうち王国の祭政一致体制において最重視された御嶽は、斎場御嶽です。聞得大君の就任式などはこの御嶽で行なわれました。現在の斎場御嶽からは、アマミキヨ降臨の聖地である久高島が遥拝できるが、これは王国時代の史料には記録されていません。また国王就任に際しては、君手摩(きみてずり)が安須森御嶽に現れ、5つの御嶽を順に巡り、最後に首里真玉森御嶽に現れるといわれています。(wikipediaより引用)
以下、アマミキヨが作ったとされる順番です。
・クボウ御嶽:今帰仁村今帰仁グスク内
・斎場御嶽(せーふぁうたき):南城市知念
・薮薩御嶽(やぶさつうたき):南城市玉城
・雨つづ天つぎ御嶽(あまつづてんつぎうたき):南城市玉城、玉城グスク内
・クボー御嶽(くぼーうたき):南城市知念(久高島)
・首里真玉森御嶽(しゅいまだむいうたき):首里城内
・安須森御嶽
安須森御嶽は琉球開闢七御嶽の一つであり、沖縄最高の聖地です。
ここは山の頂上に位置しており登山道も獣道のようなものなので簡単には行けません。貴重な動画がありましたので観て下さい!
・クボウ御嶽
琉球開闢七御嶽のうち、アマミキヨが2番目に作ったとされる御嶽です。山全体が御嶽になっているそうです。
・斎場御嶽
琉球の始祖「アマミキヨ」が造ったとされ、国始めの七御嶽の一つといわれる沖縄最高の聖地です。琉球の最高神女であった聞得大君(きこえおおきみ)の就任の儀式はこの斎場御嶽で執り行われました。2000年12月、首里城跡などとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
●御嶽と琉球舞踊
琉球舞踊 稲まづん
今年もづくりや あん美らさよかて
倉に積み余ち 真積みしやべら
(訳:今年の稲作は見事な出来栄えで倉に積みあまして、真積もしましょう)
銀臼のなかへ 黄金軸立てて
ためし摺り増する 雪の真米
(訳:銀の臼に黄金の軸を立てて、もみを摺りしらげると
例年になく多くの雪のような白い真米がとれたよ)
これは五穀豊穣を祈り、祝う歌ですがこの歌詞にも見られるように琉球の人は昔から祖先や自然を大切にし、受け継いできました。
その姿は、昔と変わらずに御嶽を大切にするところと全く同じです。人間は太陽がなければ生きていけません。そして沖縄ではこの太陽の光が年中、強いです。幾多の困難な歴史を体験した琉球の人は、変わらずに輝き力を与えてくれる太陽に感謝し、それが自然崇拝、祖先崇拝という不変のアイデンティティを育んだのではないか?と感じます。
写真引用元:
●東御廻りの御嶽
これは現在も行われている聖地巡礼の事です。
太陽の昇る東方を、ニライカナイのある聖なる方角と考え、首里からみて太陽が昇る東方(あがりかた)といわれた玉城、知念、佐敷、大里にある御嶽を巡るものです。
元々の起源は国王の巡礼と考えられており、以後時代が下るに従い、士族、民間へと広まったようです。
現在では、士族の流れを汲んでいる門中(むんちゅー:男系血族)を中心に行われています。
巡る御嶽は門中によって多少異なるが、起点の園比屋武御嶽から以下の順に巡るのが一般的です。(wikipediaを参考)
1,園比屋武御嶽(すぬひゃんうたき):首里城外
2,与那原親川(よなばるうぇーがー):与那原町
3,御殿山(うどぅんやま):与那原町
4,場天御嶽(ばてぃんうたき):南城市佐敷
5,佐敷上グスク(さしきうぃぐすく):南城市佐敷
6,テダ御川(てぃだうかー):南城市知念
7,斎場御嶽(せーふぁうたき):南城市知念
8,友利ノ御嶽(とむいのたけ):南城市知念知念グスク内
9,知念大川(ちねんうっかー):南城市知念
10,ミントングスク(みんとぅんぐすく):南城市玉城
11,仲村渠樋川(なかんだかりひーじゃー):南城市玉城
12,アイハンタ御嶽(あいはんたうたき):南城市玉城
13,藪薩御嶽(やぶさつうたき):南城市玉城
14,ヤ
ラヅカサ:南城市玉城
15、潮花司(すーぱなつかさ):南城市玉城
16,浜川御嶽(はまがーうたき):南城市玉城
17,浜川受水走水(はまがーうきんじゅはいんじゅ):南城市玉城
18,雨つづ天つぎ御嶽(あまつづてんつぎうたき):南城市玉城玉城グスク内
19,玉城祝女殿内(たまぐすくぬんどぅち):南城市玉城
20,志堅原仁川(しちんばるじんがー):南城市玉城
このように現代にも脈々と息づく伝統の基礎が御嶽にはあります。100年後も同じようにこの伝統は続いているものだと思います。ですから、「今に生きる」一人としてあらためて御嶽に祈りを捧げてみたいなぁと感じました。あなたはどのような感想を持ちましたか?
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写真引用元:
語弊特集!どんなのがあるかな?
語弊 オトナが、キュンとくる。
語弊 僕らは元気をたくわえる
信仰は、見えざるものへの愛、不可能なもの、ありそうにないものへの信頼である。 ゲーテ 「格言と反省」
写真引用元:
●はじめに
信仰とは
① 神仏などを信じ崇あがめること。
経験や知識を超えた存在を信頼し、
自己をゆだねる自覚的な態度をいう。
② 人を信じうやまうこと。(大辞林より引用)
古から人は抗えない大自然や運命と自分の人生との折り合いをつけるために信仰を持ちました。
それは時には宗教だったり自然崇拝だったりしました。形式が違うとはいえ、見えざるものへの畏怖や愛、そして信頼がそこにはあります。
ここ、沖縄でもそのような信仰が息づいています。それは大きな枠で言えば自然崇拝に近いものですが琉球に特有の神と混じり合う事により独特な景色を生み出す事になります。
前回の記事、にも書きましたが沖縄の城は戦争のための拠点という位置づけよりも「御嶽(ウタキ)」と呼ばれる信仰の場所を内包しており、その事の方が重要であったとのでは?いう事を書きました。
今回はその「御嶽(ウタキ)」について徒然と書いてみたいと思います。
●そもそも「御嶽(ウタキ)」とは?
「御嶽(ウタキ)」は琉球王国(第二尚氏王朝)が制定した琉球の信仰における聖域の総称です。実はそれ以前はさまざまな呼び方が各地方にあったそうです。信仰の概念を統一する事で権力の安定をはかったのでしょうか?(当時は政治と信仰が深く関係していたそうです)
沖縄の信仰は元来、自然崇拝や祖先崇拝が基本となっています。日本の原始宗教に近いのでは?と思います。御嶽はそのような背景をベースにもっているといえます。
御嶽の多くは森の空間や泉や川などの自然です。島そのものであることもあります。
また、御嶽によっては空間の中心にイベあるいはイビ石という石碑があります。でも一度でもイベを見た事のある方は納得するでしょうがイベは、本当にただの石である事が多いです。いわゆる「御神体」的なものではありません。
実はイベは御神体ではなく、は本来は神が降臨する標識と考えられていました。また宮古や八重山地方では、過去に実在したノロの墓を御嶽とし、そのノロを地域の守護神として祭っていることが多く見られるそうです。(一部wikipedia参考)
写真引用:
写真は「藪薩御嶽」です。
●御嶽は男子禁制
沖縄では神に仕えるのは女性の仕事でした。古くから沖縄では霊力は女性の方が男性より強く持つとされてきました。
女性は生まれながらにして神とふれあい、その力をひき出すエネルギーを強く持っていたのです。ですから神に仕える役割を担うのは自然に女性ということになります。
今でも村々のまつりごとや行事に際して、女性の神役は司祭者としての役割を担います。しかし、男性の神役は補佐する側に回るのが一般的である。女の神役は人と神の仲立ちをしたり、神の意志を取りついだりするが、男の神役にはこうした役割は無いのは興味深いです。
でもよく考えると、シャーマンや巫女などは世界的にも女性が主です。これは沖縄だけの考え方ではないのかもしれませんね。女性は直感に優れている人が多いので自然にこのような形になったのでは?というのが私の予想です♪
横道にそれましたが、聖域である御嶽は男子禁制がほとんどです。先に挙げた「藪薩御嶽」も男子禁制です (^_^)
●御嶽の由来
色々と調べてみましたが御嶽がどのように形成されているか?はハッキリしていないそうです。先に書いたように各地で自然発生的に起きた信仰を第二尚氏王朝時代に「御嶽」と制定したという経緯もあるのでしょう。
しかし、有力な説としては御嶽がある場所は元々は集落だったという事です。その証拠として御嶽の近くで生活の後や人骨などが見つかる事が多いからだそうです。
集落の中で自然崇拝や祖先崇拝の観点で「イビ」的な石などを祀るようになり、何らかの理由で集落が廃れても御嶽の機能は残り現代に残っているのではないでしょうか?
●御嶽が現代に生き残る理由
沖縄では、古くからの風習がまだ生活の中に息づいています。それは苦難の多かった沖縄の歴史もあったからかもしれません。
これは私的な意見ですが、本土から移住した方などが沖縄の人の排他的な態度に嫌気をさして帰ってしまうという事を聞く事があります。排他的な側面は否定できませんが、もしかしたらこのような古くからの風習が影響しているかもしれません。
しかし、だからと言って本土の方に対して排他的である事は良い事では全くありませんのでこれは大いに改善される点だと思います。
沖縄における御嶽は先祖を祀る場所です。「んっ?それならお墓はあるのでは?」と疑問に思う方もいるでしょう。でも沖縄の人にとってお墓と御嶽は別物なのです。沖縄の村達は遠い遠い遠い祖先たちを祖霊神であると考えています。
しかもその霊は現在も私達のそばにいて日常の私達を見守ってくれていると強く信じています。この考え方は現代にも脈々と受け継がれています。小さい頃、悪さをしたら、「天国のオジーやオバーが見ているよ」とよく言われたものです。
語弊を恐れずに言うなら、墓や仏壇、御嶽はそれぞれ祖先へアクセスするための別々の入り口という感覚を沖縄の人は自然に持っています。それが御嶽が昔と変わらずに残っている理由だと思います。
●有名な御嶽
御嶽は生活の場でもあったので大小様々なものが存在しています。観光地になっているところもあれば、ひっそりとその役目を終えかけているところもあります。街を歩いていて神社でもお寺でもないのに道端でお供えものやお酒などが置かれている祠のような場所は、ほぼ御嶽です。初めて見る方はきっと驚かれるはずです。そのくらい生活に根付いた場所なのです。
今回は有名な御嶽をいくつか採り上げてみたいと思います。
まずはその歴史から・・・
「琉球開闢七御嶽」
琉球の神話では、日の大神(天にある最高神、日神、天帝)が開闢の神アマミキヨ(アマミク)に命じて島作りをさせたと言われています。
アマミキヨはこの命を受け、沖縄本島を作り、そこに9つの聖地(出典「中山世鑑」)7つの森(出典「聞得大君御規式の次第」)を作ったとされています。
現在では、アマミキヨによって作られた聖地のうち7つが、琉球開闢七御嶽として語り継がれ、琉球の信仰においてもっとも神聖な御嶽として位置づけられています。
このうち王国の祭政一致体制において最重視された御嶽は、斎場御嶽です。聞得大君の就任式などはこの御嶽で行なわれました。現在の斎場御嶽からは、アマミキヨ降臨の聖地である久高島が遥拝できるが、これは王国時代の史料には記録されていません。また国王就任に際しては、君手摩(きみてずり)が安須森御嶽に現れ、5つの御嶽を順に巡り、最後に首里真玉森御嶽に現れるといわれています。(wikipediaより引用)
以下、アマミキヨが作ったとされる順番です。
・クボウ御嶽:今帰仁村今帰仁グスク内
・斎場御嶽(せーふぁうたき):南城市知念
・薮薩御嶽(やぶさつうたき):南城市玉城
・雨つづ天つぎ御嶽(あまつづてんつぎうたき):南城市玉城、玉城グスク内
・クボー御嶽(くぼーうたき):南城市知念(久高島)
・首里真玉森御嶽(しゅいまだむいうたき):首里城内
・安須森御嶽
安須森御嶽は琉球開闢七御嶽の一つであり、沖縄最高の聖地です。
ここは山の頂上に位置しており登山道も獣道のようなものなので簡単には行けません。貴重な動画がありましたので観て下さい!
・クボウ御嶽
琉球開闢七御嶽のうち、アマミキヨが2番目に作ったとされる御嶽です。山全体が御嶽になっているそうです。
・斎場御嶽
琉球の始祖「アマミキヨ」が造ったとされ、国始めの七御嶽の一つといわれる沖縄最高の聖地です。琉球の最高神女であった聞得大君(きこえおおきみ)の就任の儀式はこの斎場御嶽で執り行われました。2000年12月、首里城跡などとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
●御嶽と琉球舞踊
琉球舞踊 稲まづん
今年もづくりや あん美らさよかて
倉に積み余ち 真積みしやべら
(訳:今年の稲作は見事な出来栄えで倉に積みあまして、真積もしましょう)
銀臼のなかへ 黄金軸立てて
ためし摺り増する 雪の真米
(訳:銀の臼に黄金の軸を立てて、もみを摺りしらげると
例年になく多くの雪のような白い真米がとれたよ)
これは五穀豊穣を祈り、祝う歌ですがこの歌詞にも見られるように琉球の人は昔から祖先や自然を大切にし、受け継いできました。
その姿は、昔と変わらずに御嶽を大切にするところと全く同じです。人間は太陽がなければ生きていけません。そして沖縄ではこの太陽の光が年中、強いです。幾多の困難な歴史を体験した琉球の人は、変わらずに輝き力を与えてくれる太陽に感謝し、それが自然崇拝、祖先崇拝という不変のアイデンティティを育んだのではないか?と感じます。
写真引用元:
●東御廻りの御嶽
これは現在も行われている聖地巡礼の事です。
太陽の昇る東方を、ニライカナイのある聖なる方角と考え、首里からみて太陽が昇る東方(あがりかた)といわれた玉城、知念、佐敷、大里にある御嶽を巡るものです。
元々の起源は国王の巡礼と考えられており、以後時代が下るに従い、士族、民間へと広まったようです。
現在では、士族の流れを汲んでいる門中(むんちゅー:男系血族)を中心に行われています。
巡る御嶽は門中によって多少異なるが、起点の園比屋武御嶽から以下の順に巡るのが一般的です。(wikipediaを参考)
1,園比屋武御嶽(すぬひゃんうたき):首里城外
2,与那原親川(よなばるうぇーがー):与那原町
3,御殿山(うどぅんやま):与那原町
4,場天御嶽(ばてぃんうたき):南城市佐敷
5,佐敷上グスク(さしきうぃぐすく):南城市佐敷
6,テダ御川(てぃだうかー):南城市知念
7,斎場御嶽(せーふぁうたき):南城市知念
8,友利ノ御嶽(とむいのたけ):南城市知念知念グスク内
9,知念大川(ちねんうっかー):南城市知念
10,ミントングスク(みんとぅんぐすく):南城市玉城
11,仲村渠樋川(なかんだかりひーじゃー):南城市玉城
12,アイハンタ御嶽(あいはんたうたき):南城市玉城
13,藪薩御嶽(やぶさつうたき):南城市玉城
14,ヤ
ラヅカサ:南城市玉城
15、潮花司(すーぱなつかさ):南城市玉城
16,浜川御嶽(はまがーうたき):南城市玉城
17,浜川受水走水(はまがーうきんじゅはいんじゅ):南城市玉城
18,雨つづ天つぎ御嶽(あまつづてんつぎうたき):南城市玉城玉城グスク内
19,玉城祝女殿内(たまぐすくぬんどぅち):南城市玉城
20,志堅原仁川(しちんばるじんがー):南城市玉城
このように現代にも脈々と息づく伝統の基礎が御嶽にはあります。100年後も同じようにこの伝統は続いているものだと思います。ですから、「今に生きる」一人としてあらためて御嶽に祈りを捧げてみたいなぁと感じました。あなたはどのような感想を持ちましたか?
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました!
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語弊 夜、一人では遊ばないで下さい。
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ここで日本刀と言ってしまうと語弊がるのは確かで
正確には太刀
小太刀や脇差と呼ばれるものは片手使用が扱いやすい
祖父の本家に長船脇差があり祖父が戦時に持って行った際「他の者の刀より短く不恰好ではあったが使い易かった」と述べている