秀吉の最新トレンドをチェック!!
うっちーこと宇都宮芳綱です
ワールド2では姫くじから竜子さんが出ましたが(詳しくは)、
これが超優良なマネ素材なので、早速トライしてみました
まずは
兎に角、レアリティBのスキルを付けるのが大変だった
でも、その苦労の甲斐もあって、
失敗の確率を5%台にまで出来ました
果たして結果は
グッジョブ♪(‘-^*)/
まずはここで成功しないとね
さて、いよいよ本番です
攻防両用の秀吉さんに宿木が付けば、
色々と活躍の場が広がりますね
果たして結果は
グフッ!><
活躍の場は・・・広がりませんでした
何となく付いてくれるような気がしたんだけどなぁ
また機会があったらトライしてみます
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もしものときのための秀吉7選
華はないな。お前だったらどうすれば良いと思う?」
諸君 私は秀吉が好きだ
斜めに入った 継ぎ目も
そして
野ざらし状態に???
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お堂(大仏殿)
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国
軍の 武装民兵なんだから
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NHK BSで放映され録画した「アラン・ドロン、最後のメーセージ」(正確な題名は不知)を観た。
我輩が悪ガキの頃、世界一の美男子=アラン・ドロンの人気は、日本でもすごかった。
だが、85歳前後のアラン・ドロンを眺めながら
「あぁ、美男や美女は、歳をとると、かなしいな。
現代はハイビジョンだから若いころの美しさと老いた顔との落差が激しいし」
と観じた。
我輩のようなブ男のほうが、年老いても周囲の人を落胆させないという意味ではヨカヨカなのかも知れない。
若いころは、鏡をみて脂汗を流すガマガエル同様、容姿で哲学していたのだが、
50を過ぎて、「戦国時代の名将」のような良い面がまえになっているのが、よ~くわかるから(小倉の旧闇市=タンカ市場の魚屋さんの、30代後半の女店員に「イケメン!」とほめ殺しされたよ。きっと視力が悪いと思う)、やはり人生は長生きするものだな。
さてアラン・ドロンが次のようなことを言った。
「俳優は演じるのではなく、その役になりきって「生きる」のです」
な~るほど・ザ・あらん、いや~ん、ドロンわ~るど!
アラン・ドロンと同世代で、
日本のアラン・ドロンともいえる美男子=加藤剛
も、
「砂の器」の「和賀英良」という役を「生きる」
そして「TBS関ヶ原」の「石田三成」という役を「生きる」
と言えると思う。
なにせ「砂の器」も「関ヶ原」も、
たくさんの男優が「和賀英良」や「石田三成」を演じてきたのだが、
加藤剛が演じた「和賀英良」と「石田三成」以上の演技をみたことがないし、今後も現れないと思う。
それほどイメージ通りの「和賀英良」であり、「石田三成」だった。
この論説でもたびたびふれたが、我輩は、
「「新・関ヶ原」という歴史小説を書きたい!」
と約20年以上も吐露している。
資料もたくさん集めたのだが、
別府大学の悪魔のような顔をした教授(怪談がうまそう)が叫ぶ
「関ヶ原合戦は、今の古戦場ではなく、実際は、近くの山中村で戦われた!」
という有力説が真実だと思うので、
仮にそうだとすると、意味のない資料を集めてきたことになる。
だが、この有力説が正しいとすると、
今まで世に出た50冊近い「小説・関ヶ原」はすべて陳腐化するからチャンスといえなくもない。
これら小説のヒントに母体になっているのは間違いなく司馬遼太郎の「関ヶ原」であり、
最重要な史料的根拠になっているのが、大日本帝国参謀本部が編纂した「関ヶ原合戦」である。
権威に弱い日本人
のカルチャー・ファクターが
創作だらけの関ヶ原合戦
をつくってしまった。
だが、しかし、創作ではない史実もある。
石田三成の性格
である。
確かに、関ヶ原合戦の勝者である徳川家康を創始した徳川幕府は、
260年間も石田三成を罵ってきた。
とはいうものの、敵味方共に一致していた石田三成の個性は、
第一に、石田三成の豊臣秀吉および秀頼、その母・淀の方への忠誠心である。
この点に関しては、徳川幕府も認めている。
第二に、行政手腕に長け頭が良い、という個性、
第三に、頭の良さをひけらかす言動があり(相手が馬鹿にされたと観じたらしい)、いたずらに敵を増やしていたという個性、
第四に、他人が自分に悪意をもつことを恐れない個性(だから嫌われた)
この三つの個性から石田三成を評した言葉が、
へいくわい者=横柄
である。
これは石田三成が裏表をつかいわけない性格が災いしたと考えられる。
加藤剛が、TBS関ヶ原で、石田三成として「生きた」際、この4つの個性が見事に表れていた。
豊臣秀吉の大恩を片時も忘れない姿勢。
たとえば、斬首される直前まで、「あの世で太閤殿下にご報告する」と言う忠義の吐露の演技。
大垣城で宇喜多秀家や島津豊久が、徳川家康本陣への夜討ちを提案するも、
「古来、夜討ちは、小軍が大軍を相手にする場合に行うもの」
と前置きしながら、やんわり拒否し、少々、馬鹿にするしぐさをする演技。
これが島津のプライドを傷つけたことに石田三成は気づかず、
関ヶ原合戦最中、島津がまったく動かないため、
「兵を動かしてほしい!」
と島津陣地まで頼みに行くのだが、
島津豊久に
「島津はこん戦は反対じゃった。夜討ちを進言した際のおはんのあの憎たらしい顔は今でも腹が煮えくり返る!」
と罵られ、
「しかし、それはもはや過ぎたこと、今は戦の最中ではございませんか」
と石田三成=加藤剛が驚く表情が、三成の個性を見事に描写していたと思う。
義と友情に厚いさわやかな三成。
という新しい個性も、
加藤剛のすっきりした顔立ちが可能にしたと思う。
他方、加藤剛=石田三成と対照をなしたのが、徳川家康=森繁久彌の演技。
森繁久彌の徳川家康役は、「たぬきおやじ」そのまんま東で、何度も笑った。
しかも、裏表の二面性を巧妙につかいわけるしたたかさ。
だが、合戦やその他激突するシーンでは、胆力を発揮する豪快さ。
森繁久彌の徳川家康は、過去及び現在まで最高のものだと思う。
最高の石田三成(加藤剛)と最高の徳川家康(森繁久彌)。
その二人に勝るとも劣らない輝きを放っていたのが、島左近役の三船敏郎。
三船の島左近も、過去および現在まで最高のものだと思う。
TBS関ヶ原は、森繁久彌と三船敏郎という大御所二人に対して
当時は若かった加藤剛が演技で挑む、
という見方もできる。
加藤剛が主演した砂の器と関ヶ原。
我輩にとって印象深い作品であった。
加藤剛が亡くなったことを知り、若いころ、感動し、熱中した
映画青年時代を思い出した硬派感傷主義であった。
そうそう加藤剛=石田三成が友情を重んじる描写を最後に記したい。
「砂の器」もそうであったが、二つの名作に共通する社会問題があった。
らい病(ハンセンシ病)に対する差別
である。
TBS「関ヶ原」では、石田三成の親友・大谷吉嗣(佐藤幸治だったと思う)が
らい病を病み、
頭巾をして豊臣秀吉が主宰する茶会に出席するシーンがある。
秀吉が茶をたて、皆、正座で整列。
大谷が飲む順番になると、他の武将が横目で大谷に注目する。
加
剛の石田三成だけはみていない。
すると、大谷の鼻から、鼻水が茶碗の中に落ちてしまう。
他の武将は、表情を曇らせるが、秀吉の前では、けっして取り乱したりはしない。
(まるで大企業のオーナー社長に対するサラリーマンの態度であった)
大谷も、その粗相に気づくが声はださず我が身を恥じる。
本来ならば、同じ茶碗にもられた茶を
同席した人々が生死を共にする同志・仲間として
口をつけ回し飲みするのが戦国時代の茶会の作法とされる。
しかし、大谷の次に茶を飲む人は、けっして大谷が飲んだ茶碗に口をつけようとはしない。
なぜなら、らい病がうつることを恐れたからである。
だが、絶対権力者の天下人・秀吉がたてた茶を飲まないわけにはいかない。
皆、飲んだふりをする。
中には、音を立てて飲むしぐさをする者もいた(と記憶している)
そのしぐさを横目で見ていた大谷は傷つく。
大谷が口をつけ鼻水が入った茶碗を最後に受け取ったのが、加藤剛・石田三成である。
彼は、さわやかな顔で、茶碗に入った茶を一気に飲み干してしまう。
その光景を横目でみた大谷は、ものすごく感動する。
(佐吉<三成の幼名>こそが、わが真の友だ!)
このシーンは、上杉討伐のため敦賀から東上する大谷が、
石田三成の息子を迎えに行くため佐和山城に立ち寄った際、
三成から
「打倒家康! 挙兵!!」
を知らされ
「ばかな! おぬしでは家康には勝てない! やめろ!! 思いとどまれ!!!」
と説得したが受け入れられず、
「わしは、協力できない!」
と三成に激怒し、佐和山城を後にした大谷が悩む際、回想される。
結局、大谷は、
徳川家康には勝てないと知りながらも、自分の命を三成との友情に捧げようと決意し、佐和山城に戻る。
佐藤幸治が演じた大谷吉嗣も、最高の演技で今後、これをしのぐ役者は現れないと思う。
史実は、大谷の鼻水がたれた茶碗に入った茶を飲み干したのは、豊臣秀吉だった。
これで大谷は、豊臣秀吉に忠誠を誓ったようだ。
この史実を石田三成が行ったとする創作が、
司馬遼太郎だったのか、TBS関ヶ原の脚本家だったのかは記憶があいまいである。
けれども、創作を超える説得力が、
加藤剛が演じる石田三成のさわやかな表情にはあったと記憶している。