秀吉って、なんじゃろ

秀吉って、なんじゃろ

秀吉の最新トレンドをチェック!!

うっちーこと宇都宮芳綱です音譜

ワールド2では姫くじから竜子さんが出ましたが(詳しくは)、

これが超優良なマネ素材なので、早速トライしてみました合格

まずはダウン

兎に角、レアリティBのスキルを付けるのが大変だったあせる

でも、その苦労の甲斐もあって、

失敗の確率を5%台にまで出来ましたグッド!

果たして結果はダウン

グッジョブ♪(‘-^*)/

まずはここで成功しないとねニコニコ

さて、いよいよ本番ですダウン

攻防両用の秀吉さんに宿木が付けば、

色々と活躍の場が広がりますねキラキラ

果たして結果はダウン

グフッ!><

活躍の場は・・・広がりませんでしたガーン

何となく付いてくれるような気がしたんだけどなぁ汗

また機会があったらトライしてみますビックリマーク

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もしものときのための秀吉7選

政宗「俺に寄りかかっていれば楽だろ」
「それじゃあ政宗が疲れちゃうんじゃ・・・・・・」
心配で言うと、抱きしめられている腕がさらにきつくなる。
政宗「俺はお前を抱いてるほうが癒される」
「っ、私も嬉しいけど・・・・・・」
政宗「けど、なんだ? 恥ずかしいのか?」
すべてお見通しだとでも言うように、政宗は笑みを浮かべてみせる。
「それは・・・・・・政宗がいつもいきなりだから・・・・・・」
言い淀んだ私の髪に、政宗は唇を押し当てた。
政宗「したいと思ったことは、したい時にしてるからな」
「もう・・・・・・」
政宗の優しさに甘え、たくましい腕の中に、力を抜いて身を委ねる。
なんか、安心感で寝てしまうよね〜♪

束の間のささやかな休息に、心も身体も癒されていった。
——
宴の準備と自分の仕事を両立させながら、私たちは忙しく過ごしていた。
あっと言う間に数日が過ぎていき、とうとう宴前日を迎えて・・・・・・
宴で使う飾りの入った箱を広間に運ぶ途中、前から肩を濡らした家臣の男性が歩いてくる。
(外から戻ってきたばかりかな?今日は雨がかなり降ってるから・・・・・・)
「雨の中、お疲れ様です」
家臣「ゆう様、ありがとうございます。そういえば、明日の宴はゆう様と政宗様が中心となって準備してくださってるそうですね」
家臣「皆と一緒に、とても楽しみにしています」
(そんな風に言ってくれるなんて、嬉しいな・・・・・・)
思わず笑みをこぼし、返事をしようとしたその時——
(えっ?)
突然、後ろから肩を引き寄せられた。
政宗「ああ、期待しておけ」
「政宗・・・・・・!」
政宗「ゆうと一緒に良い宴にしてやるから、他の奴らにも言っておけよ」
家臣「はい、伝えておきます」
家臣の男性はくすりと笑みをこぼし、この場を去っていく。
政宗「ほら。その箱、寄越せ。宴の飾り、広間に運んでおくんだろ」
政宗は、当然のように広間に向かって歩き出す。
「いいの? 政宗、お仕事は?」
政宗「仕事なら終わった。それより宣言したからには、明日の宴、もう失敗出来ないな」
「ふふ、そうだね」
明日たくさんの笑顔が見られるようにと、私は気合いを入れ直した。
——
準備もなんとか終わり、一夜過ぎて宴当日——
朝からみんなに手伝ってもらい、広間の飾りつけをしていた。
秀吉「よし、こんなもんだろう」
三成「素敵な宴席になりましたね」
「うん!」
家康「宴席をこんな風に飾りつけるとか、よく考えたよね」
光秀「後は、食器を用意しておけば良いのか」
政宗「ああ、ここはお前たちに頼んだ。ゆう、俺たちはそろそろ料理の支度に行くぞ」
「あっ、うん」
広間の準備はみんなに任せることにして、私と政宗は台所へ向かった。
——
政宗と一緒に台所に移り、料理の準備をしようとするけれど・・・・・・
政宗「おかしいな、注文しておいた食品がないぞ」
「そうだね、とっくに届いてるはずだけど・・・・・・」
三成「大変です!」
切羽詰まった声で、三成くんが駆け込んできた。
政宗「どうした?」
三成「実は、食材を運んでいた問屋の荷台が、昨晩の雨の影響で、転倒してしまったと報告がありまして・・・・・・注文していた食材は・・・・・・」
「駄目になってしまったっていうこと・・・・・・?」
三成「・・・・・・はい」
政宗「そうか・・・・・・」
(そんな・・・・・・どうしよう)
信長「話は聞いたぞ」
焦っていると、他の家臣から報告を受けたのか信長様が台所に入ってきた。
「信長様・・・・・・」
信長「宴は延期にしても良い。どうするかは、お前たちが決めろ」
政宗「宴は予定どおりやります」
(政宗・・・・・・!?)
きっぱりと告げる政宗を見上げ、言葉を選ぶ。
「でも、予定の食材がないをだよ。時間もあまりないし、買いに行ってる時間は・・・・・・」
政宗「ああ、予定していた上質な食材を出してやることはできない。けど、美味い料理なら食わせてやることはできる。今、城にある食材で美味しいものを作ればいいだろ」
政宗は自信に満ちた顔で、私を見る。
政宗「それに俺は、お前とだったら、できないことはないと思っている」
その言葉にはっとし、これまでふたりでいろいろな案を出して準備してきたことを思い出す。
(そうだ。政宗と一緒なら・・・・・・きっとできる)
そう思い直すと、政宗を見上げた。
「うん、ふたりで乗り切ろう」
政宗「・・・・・・ああ」
信長「ならば予定どおりに宴を行う:
「はい!」
政宗「よし、急ぐぞ。三成は、問屋に食材は別の物を使うことになったと伝えてきてくれ」
三成「わかりました。お任せください」
政宗「ゆう、まずは城にある食材を集める」
「うん」
急いで蔵を確認しに行き、食材を台所に集める。芋や根菜、米等の日持ちするものや、果物があった。
政宗「これで作れそうな料理は・・・・・・」
政宗は、この場の食材で次々と作る料理を考えていく。
「さすがだね。どの料理も聞いてるだけで美味しそう」
政宗「ただこのままだ
華はないな。お前だったらどうすれば良いと思う?」
(うーん、華か・・・・・・あっ、そうだ)
「食材を花とか、いろんな形にして見た目も楽しめるようにしてみたらどう?」
政宗「なるほど、飾り切りするってことか。悪くない」
政宗はすぐさま人参を手に取り、包丁っ細工を施す。その他にも蓮根や大根を使い、あっという間に、様々な野菜の花を作り上げていく。
「綺麗・・・・・・! これは桜で、こっちが梅だね」
それだけでなく、菊や紅葉の形まである。
政宗「ああ、種類はこんなもんでいいか」
政宗は最後に蝶の飾り切りを作ってまな板の上に置いた。
「わ・・・・・・この蝶、よくできてるね。食べるのがもったいないよ」
政宗「食べなきゃもったいないだろ」
「そうなんだけど、すごく綺麗だから」
今にも羽ばたきそうな美しい蝶を眺め、目を細める。
(政宗はトラブルがあっても、冷静で頼もしいな)
少しも動じることなく自信を持って行動する政宗は、かっこよくて眩しい。
(私も、自分ができることを頑張らないと)
「私、こっちの野菜の下ごしらえをしちゃうね」
政宗「ああ、頼んだ。俺はこっちをやる」
作り始めが遅かった分も、ふたりで集中して料理を作っていった。
——
「できた・・・・・・!」
政宗「なんとか間に合ったか」
宴が始まる予定の時間ぎりぎりで、無事に宴の料理ができあがった。一緒に作りあげた料理は、美味しそうな上に見た目も豪華で、胸がいっぱいになる。
(諦めないで、頑張ってよかった)
ほっとしたのと達成感で、口元を緩めていると——
「っ・・・・・・」
唇を政宗の指先に撫でられ、鼓動が跳ねた。
政宗「頑張ったお前に、褒美をやらないとな」

諸君 私は秀吉が好きだ

先日 


とある本屋さんで


目にとまった 



幕末 維新
彩色の京都 という名の本。


明治時代の


京都を 色濃く捉えた 彩色写真




彩色写真とは
白黒写真に絵の具で色をつけた
モノで  主に来日外国人向けに
お土産用として作られた お写真。
京都の観光地を


およそ100年以上昔


カメラに収め 配色を施し


その当時の風景から


撮影された場所や被写体を


解説した 内容になっております。





そんな 


数ある写真の中に有名な 


京都の方広寺(ほうこうじ)さんが


写っておりましたので (*^^*)


早速 、


その当時と比べてみることに!!






先ずは こちら


明治時代のお写真には



広々とした 通りに面して


巨大な石垣が 続いておりますね。





方広寺は もともと


京都の地に 大仏を安置する為


天下を平定した 豊臣秀吉公が 


諸将に命じて 大仏殿の周りを


お城のごとく 石垣で囲むよう


寄進させたもの。




とにかく ド派手大好きな秀吉さん


奈良の東大寺を上回るくらいの


大仏だったとか!?


当然、石垣も巨大なモノへ





現在も その当時(天正14年)



西暦 1586年から


ずっと この場所に



留まって おられます。






昔の写真を よく見てみると


ここの 矢印→


の部分に 丸い感じの跡があり


まさしく この場所にある


石かと …


同じく ここの



斜めに入った 継ぎ目も



ほら …



ここと 同じように ヽ(*´∀`)


多少、継ぎ目に入った石は


変わってる感じだけど 




にしても 当時は


かなり 地面までの高さが


あった事が よくわかります。



前の通りを 舗装した分
石垣の高さがなくなったのかと 
思われます。





そして


今はなき 方広寺大仏殿には


あのいわくつきが …


とても 有名ですよね。





現在は 残されし



方広寺の鐘のみが


立派な 鐘楼に掛けられて


おります



がっ、





つい 100年ほど昔は



野ざらし状態に???



((((;゚Д゚)))))))





方広寺の鐘
徳川家康が 関ヶ原の戦いに勝利
した後、秀吉の息子(秀頼)に
対し 日本で最大の言い掛かりを
つけたと言う 歴史的価値のある
いわくつきの梵鐘。



にしても




昭和48年まで


その後 再々々建築され


上半身だけの大仏が あった


この

お堂(大仏殿) 



火災にあわなければ


ちゃんと 見れたと思うと


少し残念なことだけど …





やはり


京の都に 大仏は


そぐわないのかもしれないですね。





ちなみに


御朱印を 戴いた時に


お話を 伺ったおばあさん👵





写真にある この場所は


現在、



駐車場になってるとのこと





てか、ものすごく


懐かしいとおっしゃってましたが



……








いったい お幾つなんでしょうか??



:(;゙゚’ω゚’): えっ?
とても 怖くて聴けませんでした (≧∀≦)”


大好評の秀吉がお得になる情報を満載!

     『    天と地の137年周期 

            ‐  天体のサイクルで、
       地上のサイクルを読み解く 』
( 高橋徹著   2007ナチュラルスピリッツ)
さっき見たら 
Amazon で残り一点だそうです
著者はマヤ暦の研究家でもある
オカルト研究家
よく60年周期とか
 十干十二支がそうですから
 還暦というのがそれでしょ 
10と12の最小公倍数は60 
人生の周期として
比較的ぴったし来るのが
天王星の公転周期なんで
 84年です 
まあ普通に
人生の満期と考えてだいたい
どう考えたって残りは 余生
ところがこの高橋さんて人
137年という
 天文暦に基づく周期を出してきた
 半端なやつですよ
 ところがこれ日本
 こと 日本の歴史に限ってみたところが
成功ポイントだったと思うけど 
驚くべきことがわかる
 日本の歴史は
驚くほど ぴったり
 137年という
不思議な周期で区切られている 
大化の改新辺りからぴったりそうな
 そしてそのちょうど真ん中
 69ドット±何年 
70年にちょっと足りない 
あたりでも大きな 出来事が起こる
 途中のサイクルの区切り方の
説明は省きます 
高橋徹さん一面識もないし
 他の著書を読んでいないんですけど
歴史上の天才
 例えば鎌倉幕府や江戸幕府 
織豊政権がまさに典型的だけど 
コンスティテューション
建てる人間は何かしら天才です
統一事業とか言うだけではない
高橋徹さん 
慧眼 だったと思うのは
全国統一徴税システムの完成
これを
『コンスティテューション =  体制確立』の
 merkmal としておられること
つわり近代日本 の出発点を
歴史家は普通
1866年から7年においている 
言わずと知れた明治維新
 明治元年が1867年ですから
孝明天皇の謎の急死を受けて
始まったわけです 
歴史家が注目するのは
徳川慶喜の大政奉還
 そこからまあ鳥羽伏見の戦い
そして江戸無血開城へと
 今大河ドラマでやっているあたり
これが凡人の歴史感覚 
しかし 一つの
大きな体制が終わり 
そして始まるポイントは
 誰かが何かを名乗ったくらいでは
それを言うなら後醍醐天皇の
建武の新政だって
しかし後醍醐天皇は
歴史を画する人物ではあったけど
 一つの体制を作られた
ということはありません
 そのご周知の通り
  室町幕府に行くわけで
実はこの時まだ 
武家社会とはいっても 
侍による支配権や 徴税権
 完全に合法的とも言えない
グレーなものだったんで
法的な所有権は
実は 朝廷だったり
 有名な寺神社だったり
 あるいは公家だったりしたわけで
最初は限りなく非合法だった 
ヤクザのみかじめみたいなもの
彼らが流離貴種を迎え
それが清和源氏 桓武平氏ですけど
いかにも合法的体裁を見せかけて
代理 徴税執行役人 として
権力を確立していった
だから征夷大将軍という
 古代権力の仮衣が必要だった
少なくとも鎌倉室町幕府はそう
 全国の荘園が完全に
 法システムとして消滅したのは
 安土桃山時代の 豊臣秀吉による
いわゆる太閤検地です 
ヨーロッパでは
現在も残る荘園が
イギリスなんかいっぱいありますからね
 ヨークシャとかバークシャーとか
 シャーがつく土地は全部そう 
そして荘園領主は
 大貴族 shires と呼ばれる 
少し脱線しますけど 
ジェームズ・ボンドが
いることになっている
英国対外情報部 MI  6 
要職とか大スパイはほとんどが shires 
 ボンド本人もそういう設定
ノルマンディーから来た 大貴族です
 自分の荘園があるから裏切らない
 そういう判断なんだそう
ちなみにあの
チャールズダイアナの大騒動
 最終的にダイアナの死をもって
終わったわけですけど
 あの時 ダイアナ妃の
 交際相手とされる 人物との
会話盗聴テープまことしやかに
 そしてイギリス国民
ほとんどそれを 疑ってもいなかった
 普通出所を疑うでしょ?
 本物かどうかもね 
しかし彼らはそうしなかった 
なぜか ?
チャールズが
 EU 参加積極論者であり
 これに shires たちが怒っていることを
国民全員が知っていたから
 そして shires ・シャイアズが
 英国情報部の主流であることも
 彼らがチャールズを
貶めるためにやっているのだ
ということも知っているんです
 日本で伝わらないだけで
近代を事実上始めたのはイギリス
 ピューリタン革命とその後の 名誉革命
 17世紀の中盤から後半の出来事
こういう国をケーススタディに 
というのは難しい
 まだ荘園が残っている
 だから 徴税システム の根本的な改革
というのはなかなか起こらない
 それがヨーロッパの 継続性
でもあるわけだけど
 日本という
ケーススタディとしてわかりやすい
 全国 徴税システム
 これがうち建てられて
 ダメになるまでの期間
 645年の大化の改新あたりからこっち
 ほぼ正確に『137年』なんで
江戸幕府開府 1603年 
それから137年後
 徳川8代将軍 吉宗 
享保の改革による 徴税システムの 大変更
 徳川家康の幕藩体制
 キモは何であったのか?
 『不在地主・ 巨大地主 を作らない』
 幕府と諸藩による
 零細農民 土地所有保証と 職業選択 禁止 
つまり身分固定です
 最終的にそれは
田畑永代売買の禁令に
 幕府ができてすぐじゃないけど 
しかしそれが行き詰まる
 元禄バブル景気が崩壊 
ちなみにその息の根を止めたのは 
18世紀初めの 秋
 秋ということを強調しときますが 
東海南海連動大地震 
そしてその発生後49日目の
 富士山の宝永大噴火です 
これにより南関東の農村が
壊滅的打撃を受け
 江戸の暮らしにも大きな影を落とす
 そりゃそうです
 ここから一気に不景気 
そして 徳川家宣  家継 2代にわたる 緊縮財政
 大学者新井白石が 活躍したものの
 幕府の窮乏止まらず 
切り札として出てきたのが
徳川吉宗だった
 徳川吉宗は何をやったのか?
 諸事権現様 つまり
徳川家康の御諚通り
 というスローガンとは裏腹に 
真逆のことを やり
 これが現代までつながっている
織豊政権と徳川幕府が やっと
 日本の不在地主大土地所有を
禁止することをやった 
これを徳川吉宗は
元に戻すきっかけを作ってしまった
売買の禁令を破ることはできない
 しかし 土地の貸借は 
禁止が明文化されていない
食い詰めた農民や 零細な サムライ
 カネを持つ金を持つ商人
そして田舎の 力をつけた 庄屋 
 力をつけた農民に
 カネを借りなければならなかった
 カネがなければ生きられません
 暴れん坊将軍も
それは認めざるを得なかった 
苦肉の策として
『 土地貸借』を認めた結果 
貸借関係が 有効期限無限大に 
つまり事実上
所有したも同然に 
こうしてできたのが
現在の 日本 各地の大地主なんです
 つまり徳川吉宗は 
137カケル2 
2サイクル前 
現在の日本 地主社会の 基礎を作ったわけ 
そして1740年から ぴったり137年 後 
西暦で言えば1877年 
日本で何が起きましたか?
 西南戦争です 
西南戦争って何ですか ?
トム・クルーズ主演の ハリウッド映画 
『ラストサムライ 』
渡辺謙さんが演じた役の
モデルが西郷隆盛 
サムライが滅んだ戦争
通り一遍の歴史家の考えではそう 
しかし 西南戦争 
その歴史的な最大意義
 武士の世の終わり
みたいなことではありません 
あの戦争で
薩摩武士団が滅亡したことにより 
初めて近代日本国家の 近代徴税システム
 全国で例外なく稼働できた
 高橋徹さんの慧眼がそこ 
近代日本の始まりは
 実は明治維新1867年ではなく
 西南戦争終結 1877年 
厳密に言えば 今日という日9月24日 
1877年9月24日 
西郷隆盛が 城山にて 切腹した日
 今日はそういう日なんですよ
そして1877年 から137年後
 ほぼ137年後ね
2014年だけど
 その頃 少なくとも その前後に
近代日本国家終焉を告げる事件が起き 
そして近代日本の
幕引きを図る人間が現れていなければ
ならんわけですわな?
 それが何で 
それが誰であるのか?
 もはや明明白白じゃありませんか?
東日本大震災であり
 誰が何と言おうともはや回復不能な
福島第一原発の 原子炉無事故であり
じゃありませんかね?
真ん中にどうでもいい
カエルみたいな変な男
 野田佳彦前総理のことですけど
ワンポイントリリーフです 
業績と言ったら 
福島第一原発は冷温停止状態
という嘘をついたことだけ
 アブラガミ 燃やすみたいに
ベラベラ喋る男だったね
その前後の 菅直人
 そして 一呼吸おいてまた出てきた
安倍晋三
 菅直人は東京工業大学 
安倍晋三は成蹊大学
 偏差値にはかなり大きな落差
 この二人 真逆のように見えるけれども
 右と左の鏡像関係になっている
だけなんだよね
 左の安倍晋三が菅直人
 右の菅直人が安倍晋三なんです 
どちらも短気で 度量が狭いこと
 反対派を認めるということ
まるっきりできない
年中いきり立っている
 周りにはお追従屋と女性ばかり 
そして肝心なことは
 どちらも長州の人間だということ
 明治維新を始めた 薩摩パートナー 
でしゃばりの長州人
大震災と原発事故の前年
2010年 の今日
何が起きたかご記憶ですか ?
尖閣列島付近での
 海上保安庁調査船への
中国 海賊船の衝突事故
 あれ海賊ですよ
 隠れ解
軍の 武装民兵なんだから
 海上保安庁が 捕縛した 
中国人海賊 
菅直人内閣は 沖縄地裁に 命令し
 自由放免に
 幕末以来
日本人が その獲得に
四苦八苦してきた 
近代日本国家の主権 
売り渡すようなことを平然とやった 
右翼に与するわけじゃないですよ
 事実を言っているだけ 
菅直人仙谷由人が何と言おうと 
民主党政権はあの時
 日本の主権放棄に近いことやったわけです 
そしてその日がなんと
 あの西郷隆盛自刃の日 
8年前の今日
9月24日ですよ
信長秀吉家康が
500年に一人くらいのとすると 
西郷隆盛の 
文字通り 回天の遺業 
彼は平将門が事実上始めた
 というか結果的に切り 拓いた 
サムライの時代 
その幕引き人 
それにどう考えても 負け戦になること 
分かり切った戦 の中心に 自らたって 
欲得損得抜きで人を集める
 巨大な人格力という点
 おそらく歴史上探せば 
出雲大国主ぐらいしか 
同類が見出せない 
おそらく1000年単位に一人の人 
その命日にこんなことをやった 
普通はなにごとか起こります
 そして ほぼ半年後
 東日本大震災と原発事故 
137年周期恐るべしですよね
 この時 敗戦でも崩れなかった 
神話がひとつ崩壊した
ちなみに太平洋戦争敗戦の 
1945年昭和20年 
このサイクル
1877年から 20 13から14 の
ちょうど中間 
折り返しポイントであること
 ここでも高橋さんが
発見されたサイクル
 完璧に一致してます 
近代日本官僚の無能が天下に
 チェルノブイリ事故の時 
それでも旧ソ連官僚は
 失敗はあったけれど
 被害を最小化する努力を最後までしたが
 日本の官僚は右往左往するだけで
それができなかった
 狼狽えた彼らはすがるものを見つけた 
それが安倍晋三 と言う 
アナクロ 強権政治家だった
 そういうことです
 不思議なほど 安倍晋三
嫌い抜いているはずの 菅直人と
同じコースを辿ってます
 さっきの日露首脳会談
 これまた明治そして
戦後の敗戦 からこの方 
歴代日本の指導者が 粘り強く進めてきた
 北方領土主権回復を
パーにするようなことを一人で行ってきた
 不思議に右翼は黙っている
 菅直人の時はあれだけ騒いだのに
 やっているのは同じこと
安倍晋三がどういう思いでいようが
そんなことは関係ありません
 政治も外交も『 結果がすべて』
どう考えても 1877年以後の近代日本 
そして 徳川吉宗の
享保の改革 完成 時期
1740年 に形成された
 日本の近代地主 社会 
共に終焉を迎えようとしている 
そして安倍晋三という人 
明治維新の主役長州藩 
そして 江戸中期にできた 地主階級
両方の利益代表
 この人
安倍晋三こそ
 その能力はどうあれ 
近代日本の幕引きにふさわしい 
『負の相続者』であること 
見事に 浮き彫りに 
横溝正史『犬神家の一族』
スケキヨさんみたいなもの
あるいはまー日本版カラマーゾフ家の一族 
ブッデンブローク家でもいいけど
まあそういう人ですわ
高橋徹さん今どうしておられるのか?
 ここから先は
牡牛座天王星のジンクスみたいな話
 つまり 日本そのものを
崩壊させかねないような
 大地震もしくは 大津波
そして大噴火 あるいはその両方か?
 まとめて全部?
 幕引きはもう間近に来ていると
 まあジンクスといえばそれまでだけど 
恐るべき フラグ 立ちまくり状態です
 今日はそれを考える日に

携帯で秀吉を買って楽天ポイントがお得!

NHK BSで放映され録画した「アラン・ドロン、最後のメーセージ」(正確な題名は不知)を観た。

我輩が悪ガキの頃、世界一の美男子=アラン・ドロンの人気は、日本でもすごかった。

だが、85歳前後のアラン・ドロンを眺めながら

「あぁ、美男や美女は、歳をとると、かなしいな。

 現代はハイビジョンだから若いころの美しさと老いた顔との落差が激しいし」

と観じた。

我輩のようなブ男のほうが、年老いても周囲の人を落胆させないという意味ではヨカヨカなのかも知れない。

若いころは、鏡をみて脂汗を流すガマガエル同様、容姿で哲学していたのだが、

50を過ぎて、「戦国時代の名将」のような良い面がまえになっているのが、よ~くわかるから(小倉の旧闇市=タンカ市場の魚屋さんの、30代後半の女店員に「イケメン!」とほめ殺しされたよ。きっと視力が悪いと思う)、やはり人生は長生きするものだな。

さてアラン・ドロンが次のようなことを言った。

「俳優は演じるのではなく、その役になりきって「生きる」のです」

な~るほど・ザ・あらん、いや~ん、ドロンわ~るど!

アラン・ドロンと同世代で、

   日本のアラン・ドロンともいえる美男子=加藤剛

も、

「砂の器」の「和賀英良」という役を「生きる」

そして「TBS関ヶ原」の「石田三成」という役を「生きる」

と言えると思う。

なにせ「砂の器」も「関ヶ原」も、

たくさんの男優が「和賀英良」や「石田三成」を演じてきたのだが、

加藤剛が演じた「和賀英良」と「石田三成」以上の演技をみたことがないし、今後も現れないと思う。

それほどイメージ通りの「和賀英良」であり、「石田三成」だった。

この論説でもたびたびふれたが、我輩は、

「「新・関ヶ原」という歴史小説を書きたい!」

と約20年以上も吐露している。

資料もたくさん集めたのだが、

別府大学の悪魔のような顔をした教授(怪談がうまそう)が叫ぶ

「関ヶ原合戦は、今の古戦場ではなく、実際は、近くの山中村で戦われた!」

という有力説が真実だと思うので、

仮にそうだとすると、意味のない資料を集めてきたことになる。

だが、この有力説が正しいとすると、

今まで世に出た50冊近い「小説・関ヶ原」はすべて陳腐化するからチャンスといえなくもない。

これら小説のヒントに母体になっているのは間違いなく司馬遼太郎の「関ヶ原」であり、

最重要な史料的根拠になっているのが、大日本帝国参謀本部が編纂した「関ヶ原合戦」である。

  権威に弱い日本人

のカルチャー・ファクターが

  創作だらけの関ヶ原合戦

をつくってしまった。

だが、しかし、創作ではない史実もある。

  石田三成の性格

である。

確かに、関ヶ原合戦の勝者である徳川家康を創始した徳川幕府は、

260年間も石田三成を罵ってきた。

とはいうものの、敵味方共に一致していた石田三成の個性は、

第一に、石田三成の豊臣秀吉および秀頼、その母・淀の方への忠誠心である。

この点に関しては、徳川幕府も認めている。

第二に、行政手腕に長け頭が良い、という個性、

第三に、頭の良さをひけらかす言動があり(相手が馬鹿にされたと観じたらしい)、いたずらに敵を増やしていたという個性、

第四に、他人が自分に悪意をもつことを恐れない個性(だから嫌われた)

この三つの個性から石田三成を評した言葉が、

  へいくわい者=横柄

である。

これは石田三成が裏表をつかいわけない性格が災いしたと考えられる。

加藤剛が、TBS関ヶ原で、石田三成として「生きた」際、この4つの個性が見事に表れていた。

豊臣秀吉の大恩を片時も忘れない姿勢。

たとえば、斬首される直前まで、「あの世で太閤殿下にご報告する」と言う忠義の吐露の演技。

大垣城で宇喜多秀家や島津豊久が、徳川家康本陣への夜討ちを提案するも、

「古来、夜討ちは、小軍が大軍を相手にする場合に行うもの」

と前置きしながら、やんわり拒否し、少々、馬鹿にするしぐさをする演技。

これが島津のプライドを傷つけたことに石田三成は気づかず、

関ヶ原合戦最中、島津がまったく動かないため、

「兵を動かしてほしい!」

と島津陣地まで頼みに行くのだが、

島津豊久に

「島津はこん戦は反対じゃった。夜討ちを進言した際のおはんのあの憎たらしい顔は今でも腹が煮えくり返る!」

と罵られ、

「しかし、それはもはや過ぎたこと、今は戦の最中ではございませんか」

と石田三成=加藤剛が驚く表情が、三成の個性を見事に描写していたと思う。

義と友情に厚いさわやかな三成。

という新しい個性も、

加藤剛のすっきりした顔立ちが可能にしたと思う。

他方、加藤剛=石田三成と対照をなしたのが、徳川家康=森繁久彌の演技。

森繁久彌の徳川家康役は、「たぬきおやじ」そのまんま東で、何度も笑った。

しかも、裏表の二面性を巧妙につかいわけるしたたかさ。

だが、合戦やその他激突するシーンでは、胆力を発揮する豪快さ。

森繁久彌の徳川家康は、過去及び現在まで最高のものだと思う。

最高の石田三成(加藤剛)と最高の徳川家康(森繁久彌)。

その二人に勝るとも劣らない輝きを放っていたのが、島左近役の三船敏郎。

三船の島左近も、過去および現在まで最高のものだと思う。

TBS関ヶ原は、森繁久彌と三船敏郎という大御所二人に対して

当時は若かった加藤剛が演技で挑む、

という見方もできる。

加藤剛が主演した砂の器と関ヶ原。

我輩にとって印象深い作品であった。

加藤剛が亡くなったことを知り、若いころ、感動し、熱中した

映画青年時代を思い出した硬派感傷主義であった。

そうそう加藤剛=石田三成が友情を重んじる描写を最後に記したい。

「砂の器」もそうであったが、二つの名作に共通する社会問題があった。

   らい病(ハンセンシ病)に対する差別

である。

TBS「関ヶ原」では、石田三成の親友・大谷吉嗣(佐藤幸治だったと思う)が

らい病を病み、

頭巾をして豊臣秀吉が主宰する茶会に出席するシーンがある。

秀吉が茶をたて、皆、正座で整列。

大谷が飲む順番になると、他の武将が横目で大谷に注目する。


剛の石田三成だけはみていない。

すると、大谷の鼻から、鼻水が茶碗の中に落ちてしまう。

他の武将は、表情を曇らせるが、秀吉の前では、けっして取り乱したりはしない。

(まるで大企業のオーナー社長に対するサラリーマンの態度であった)

大谷も、その粗相に気づくが声はださず我が身を恥じる。

本来ならば、同じ茶碗にもられた茶を

同席した人々が生死を共にする同志・仲間として

口をつけ回し飲みするのが戦国時代の茶会の作法とされる。

しかし、大谷の次に茶を飲む人は、けっして大谷が飲んだ茶碗に口をつけようとはしない。

なぜなら、らい病がうつることを恐れたからである。

だが、絶対権力者の天下人・秀吉がたてた茶を飲まないわけにはいかない。

皆、飲んだふりをする。

中には、音を立てて飲むしぐさをする者もいた(と記憶している)

そのしぐさを横目で見ていた大谷は傷つく。

大谷が口をつけ鼻水が入った茶碗を最後に受け取ったのが、加藤剛・石田三成である。

彼は、さわやかな顔で、茶碗に入った茶を一気に飲み干してしまう。

その光景を横目でみた大谷は、ものすごく感動する。

(佐吉<三成の幼名>こそが、わが真の友だ!)

このシーンは、上杉討伐のため敦賀から東上する大谷が、

石田三成の息子を迎えに行くため佐和山城に立ち寄った際、

三成から

「打倒家康! 挙兵!!」

を知らされ

「ばかな! おぬしでは家康には勝てない! やめろ!! 思いとどまれ!!!」

と説得したが受け入れられず、

「わしは、協力できない!」

と三成に激怒し、佐和山城を後にした大谷が悩む際、回想される。

結局、大谷は、

徳川家康には勝てないと知りながらも、自分の命を三成との友情に捧げようと決意し、佐和山城に戻る。

佐藤幸治が演じた大谷吉嗣も、最高の演技で今後、これをしのぐ役者は現れないと思う。

史実は、大谷の鼻水がたれた茶碗に入った茶を飲み干したのは、豊臣秀吉だった。

これで大谷は、豊臣秀吉に忠誠を誓ったようだ。

この史実を石田三成が行ったとする創作が、

司馬遼太郎だったのか、TBS関ヶ原の脚本家だったのかは記憶があいまいである。

けれども、創作を超える説得力が、

加藤剛が演じる石田三成のさわやかな表情にはあったと記憶している。


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秀吉様を拒否した罪、豊臣に屈するなら…。いや、やはり許さない!
@yrk__andbspdr @Bo_sy12 えっえっどうしよ😭ほぼさん間近で拝めるとか最高すぎて尊み秀吉🙏🏻
赤井秀一の父、赤井務武は羽田浩司の事件に関わったことで消息不明になった。赤井秀一はその事件の真相を知るためアメリカ国籍を取得し、FBIに入った。羽田浩司は秀吉が養子になった羽田家の息子で義兄にあたる。

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