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働きアリの法則①
和食の後は、やっぱり和菓子に限り
ますね。
「働きアリの法則」というのがあり
ます。
これは、別名「2:6:2の法則」
とも呼ばれていて、よく働くアリが
2割、普通に働くアリが6割で、サボ
るアリが2割いるというもので、この
法則は、あらゆる組織に当てはまるそ
うです。
そして、よく働く2割のアリが8割の
食料を集めて来て、残り2割の食料を
その他8割のアリが集めて来るのです
が、その内の2割は全く食料を集めず
にサボっているアリなのです。
これも、パレートの法則(8:2の法
則)と呼ばれていて、あらゆる活動に
当てはまると言われています。
そして、これらの法則で不思議なこと
は、よく働くアリを別に移しても、
普通に働くアリの中からよく働くアリ
が出て来て、元の2:6:2の割合に
戻るし、サボるアリを別に移しても、
普通に働くアリの中からサボるアリが
現れて、やっぱり、元の割合である
2:6:2に戻ってしまうというの
です。
面白いですね。
しかし、これらの法則をいくら理解し
ていても、多くの組織はそれを潔しと
せず、何とか全体の効率を上げようと
努力しています。
戦国武将の織田信長もそうでした。
直属の部隊には2割の精鋭を揃え、
その精鋭同士を極限まで競わせて、
明智光秀や羽柴秀吉などの優秀な人間
はどんどん出世させる一方で、能力の
低い人間は徐々に閑職へと追いやり、
最後は織田家という組織から追放して
しまうのです。
「2割の精鋭を競わせて、より精鋭へ
と育て上げながら、無能な2割を排除
する」この究極ともいえる組織の合理
化は、天下統一を目前にして、信頼し
ていた精鋭中の精鋭である、明智光秀
の謀反によって終焉を迎えます。
ー長くなるので次回に続きます。ー
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男の中の秀吉
落ち込んだりもしたけれど、秀吉です
大阪環状線沿線を走って一周(約25km)するのは、ラン友さんのイベントで3回ほど参加したことがあります。その駅ごとにスタンプが置いてあり、それを御朱印のように集めて回ってみようという面白そうなイベントがあったので、参加してみました。
企画してくれたのは、ラン仲間のぎゅうさんとKせんせです。
仕事休みだった7日木曜日、集合場所のJR天王寺駅には平日にも関わらず11人のランナーが集まりました。(途中から参加したり、用事で離脱したりして全体では13人が参加したようです。)
主催者のぎゅうさんは、わざわざ百均の文房具でこんな御朱印帳を参加者のために作ってくれました。
(写真は一緒に走ったメンバーの撮ってくれたものをかなりお借りしました。ありがとうございます!)
9:10 天王寺駅をスタート。
通勤客や買い物客の人混みの中を、場違いなランナーが抜けていきます。最初はみんな元気なので、キロ5分台でスタートダッシュ。
(「 」の文句は、それぞれの駅のスタンプに書かれていたキャッチフレーズ(?)です。)
9:18 新今宮駅
「動物園・新世界・通天閣へとつながる駅」
一昔前までは日雇い労働者やコワイお兄さんたちが溢れてなかなか近づけなかった駅周辺も、今では外国語が飛び交う観光地になりましたね。
9:35 今宮駅
「大阪環状線で最も高い駅」
一番標高が高いのか?と思って調べてみたら、関西本線と環状線が乗り入れているため、駅の構造が高くなっているだけのようです。
9:45 芦原橋駅
「人権・太鼓ロードの玄関口の駅」
人権はともかく、確かに芦原橋周辺は太鼓の街で、駅前には「太鼓正」はじめ昔からの太鼓づくりの店があります。
バスのベンチにも太鼓、公衆電話ボックスの屋根も太鼓のモチーフですよ。
10:00 大正駅
「ドームと沖縄料理の街の駅」
京セラドーム大阪が近くにあり、大正区は市内で沖縄出身者が一番多くて、駅周辺には沖縄料理店がいっぱいありますね。
ドームの裏を走ります。
弁天町駅近くのパン屋さん BON APPETIT! で軽く買い食いした後、
10:40 弁天町駅
「大阪環状線と地下鉄が交差する駅」
そんな駅は弁天町以外にもいっぱいあるのに、他にアピールすることがなかったんでしょうか?
10:55 安治川トンネル
ここはもう何回も潜った安治川の下を通る地下道。地上より2〜3℃は気温が低くてピンヤリしてます。
11:00 西九条駅
「ゆめ咲線へイベント列車が走る駅」
工場地区だった西九条が一変したのは、ユニヴァーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)のおかげですよね。
11:20 野田駅
「大阪の台所 中央市場本場の駅」
なぜここに大阪市中央卸売市場が作られたのかは、わかりません。
近くの露店で売っていた清見オレンジをせんせが買ってくれました。よく冷えていて美味しかった。
ここでまたまたちょっと寄り道。堂島ロールで一時有名になった堂島スウィーツの工場横の直売店へ。あいにくロールは売り切れていたようですが、店に人のご厚意で抹茶ケーキをタダでもらえました。ありがとうございます。
店の前にはちょうどヤクルトのお姉さんが移動販売中だったので、みんなジョアはじめ一つづつ買って売り上げに貢献(笑)
11:50 福島駅
「福沢諭吉誕生の地がある駅」
九州中津藩のイメージが強い福沢諭吉ですが、生まれたのは蔵屋敷のあった大阪福島だそうです。(もっともすぐに九州へ行ってしまったようですが)
福島駅周辺は、最近はおしゃれな飲食店がいっぱい出来て変貌が激しいところですね。
12:00 大阪駅
「水の都に銀杏並木がつづく駅」
大阪駅の特徴は、やはり大阪全体のアピールポイントを打ち出すしかなかったようです。
コンコースを場違いなランスタイルの集団が移動中。
阪急梅田駅近くには、こんな撮影スポットもできています。
梅田のEST沿い(旧UNIQLO店横)にある歯神社に立ち寄り、歯の健康祈願.。噂に聞いたことはあったのですが、こんなところに小さな祠があるのを初めて気が付きました。
このあとちょっとロスト。環状線沿いに行かなくてはいけないところを、東海道線沿いの高架に沿って進んでしまったため、慌てて中崎町のおしゃれな街並みを抜けて環状線高架下までコースを修正したため、数百m余分に走るはめに。
12:40 天満駅
「日本一長い商店街がある駅」
言わずと知れた天神橋筋商店街がありますね。
(ここではうっかりとして集合写真を撮り忘れました)
12:50 桜ノ宮駅
「大阪の桜並木 水の都を体験できる駅」
まさに駅の名前の通りです。
ここでもちょっとトラブル。平日昼間なので駅員さんが常駐していなくて、連絡がつくまで10分ほど余分な時間を潰すことに。
13:20 京橋駅
「大阪新都心 OBPへの玄関駅」
ある年代以上の大阪人には、
♫きょうばしはえーとこでっせ、グランシャトーがおまっせ〜♫
のイメージが強い歓楽街ですよね。
やはり現代風にOBP(大阪ビジネスパーク)をアピールしたかったんでしょうか?
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nbsp;
13:40 大阪城公園駅
「太閤秀吉の城とホールの駅」
ここも名前の通り、大阪城と大阪城ホールのための駅です。
13:50 森ノ宮駅
「大阪城天守閣が見える駅」
天守閣はどこからでも見えるはずなんですが、ほかにアピールポイントがなかったんでしょうかね?
玉造駅の近くの「パン屋」という名前のパン屋さんで、パンならぬソフトクリームをゲット。
この日は雨の心配はなかったですが、湿度が高くてみんな汗まみれ。冷たいソフトで体を冷やしました。
14:15 玉造駅
「大阪城の出城 真田幸村のゆかりの地 玄関駅」
玉造といえば、やはり真田丸、六文銭の旗印が溢れています。
玉造駅に来たら、やっぱりこの旧103型を模したテナントビルの前で写真撮りますよね。
14:30 鶴橋駅
「かおりに誘われ鶴が舞い降りる駅」
鶴橋はそんなおしゃれな謳い文句より、焼肉の街でいいんじゃないでしょうか?(笑)
ここでもKせんせが知り合いの韓国料理の出店でキンパ(巻き寿司)を買ってくれました。ゴマ油が効いて美味い!おもわずみんな近くで缶ビールをい買って一息。ずっと行動食ばかりでお腹が空いていたので、ちょうどよかったです。
14:50 桃谷駅
「徳川将軍の元本陣 御勝山古墳の駅」
御勝山古墳というのはあまり馴染みがないですが、大阪冬の陣で徳川方が陣を引いて勝利したことに由来するそうですが、行ったことはありません。
15:05 寺田町駅
「阿倍野・天王寺・生野区の3区に関係する駅」
もっと他にアピールできなかったんかい!と思わずツッコミたくなるフレーズ。確か周辺にお寺が多かったのでこの名がついたはずですが、天王寺に遠慮したのかな?
あべのハルカスが見えて来たらゴールは間近。みんなのスピードが上がります。
そして
15:20 天王寺駅にゴール!お疲れ様でした。
「四天王寺と七名水の駅」
昔は生駒山からの伏流水が流れて来て、それが生活用水だったようです。四天王寺周辺もお寺が多く、天王寺七坂も有名ですね。
途中いろいろあって、予定より1時間ほど遅れてのゴールでした。ゴールした後は、近くの銭湯和光浴場へ向かいます。いつもは通天閣下のラジウム温泉を使うので、この銭湯は初めてだったのですが、中は予想外に広くて気持ちよかったです。
汗を流したあとは、新世界の串カツ屋に向かって打ち上げしたことは言うまでもありません。
いつもの環状線一周ランにスタンプラリーが プラスされた今回のイベント、なかなか面白かったです。
走った後でわかったことですが、スタンプ台が置いてある場所も駅ごとにまちまちで、改札の外に置いてある駅もありましたが、改札の中にあるケースが多かったようです。その場合は駅員さんに断って、改札内に入れてもらいスタンプを押すことになりましたが。スタンプも機械でプレスするものもあれば、手で押す場合もあり、けっこうバラバラでした。
新たな大阪の魅力も見つけられたイベントでした、半分以上が知らないメンバーでしたが、新しい知り合いもできて良かったです。
1972年の秀吉
ようこです
昨日の記事
にまたまた反響がすごくって
嬉しいな〜と思っております
今、もしくは2019年に向けてのこの時期だから
生命力を司る第一チャクラ(ポジティブな性的欲求)を
活性化する必要性があるのかな?と感じます。
ハーバリックヒーリングテント情報
9月限定禊テントあと3つ♪→完売御礼!
さよなら『←極→』キャンペーン」
11/8まで残りあと45日!!
木星蠍座期終了まで後少し。
「大好き!」と「大嫌い!」を明確にし
何となく人生変わりたい…よりも
「絶対人生変わる!」という
2019年を向かえるために。
あと45日で入れなくなっちゃうよ〜!
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特製バスソルト1本、
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2本目をプレゼント中
第一チャクラを活性化する
一番手っ取り早い方法は
やっぱりハーバリックヒーリングテント
ですが。
山に登る(女神山は182Mなので超軽いハイキングです)
という体を動かす行為も本当に運気回復にいいんです。
運を動かすから運動、とコーチ業の方に
教えていただきましたが、本当にそう。
モヤモヤっとしている方は、
ちょっと体を動かすだけでも気分が
スッキリしますよー
女神の山は運動するからスッキリ!というだけでなく。
山全体から不思議なエネルギーが出ています。
それに触れるだけでも、
かなり色々なことを感じられます
戦争に関わった霊もいるし、天狗もいるし、
不思議な見えない生き物もいっぱいいます。
それらにじーっと見守られながら(監視?)
山を歩きます。
実のところ、私が山に行って感じるのは
「太閤秀吉が伏見城を建てたのは
ここにこの山が存在してたからなんじゃないかな」
って思います。
(これって書いて良いのかな…。ドキドキ)
そしてここで決意した事は、形になる。
(参照)
今までの願いって
「もやっとした願いだったから形にならなかった」
という事と
「神様が願いを叶えるタイミングがある」
という事なのかも。
女神の山と私が感じるだけあって、
この山は、女性が女性として自立している、
と同時に男性にちゃんと守られて生きることも
知ってる、それを自然に出来ているという感覚です。
つたない文章で恐縮ですが、お伝え出来てるかな〜〜。
私はただいま自立の訓練中といったところ。
女神の求めるレベルに達する事が出来ているかは
ツアーで確認します。
日程 10月27日(土)11時〜14時前後を予定。
場所 京都市伏見区(お申し込み時に詳細をお知らせします)
参加費 1万5千円(ランチ代、女神のメッセージ付き)
駅から徒歩15分〜20分程度なので歩きやすい服装、
歩きやすい靴でおいでください。
お申し込み先
読んでいただいてありがとうございます
☆
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☆
(詳細はご予約時に)
秀吉先生。運動会は、7月過ぎにして下さい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「ねずさんのひとりごと」より転載一部加工
秀吉の朝鮮出兵に関しては、様々なサイトで取り上げられています。
その中でも、ねずさんのブログは非常に解かり易いので、直接ブログに飛んでご覧いただきたい(コメント欄もご参照の事)と思います。
最近の韓国で、もっとも嫌われている日本の人物の代表といえば、豊臣秀吉があげられます。理由は、文禄、慶長の役(ぶんろく、けいちょうのえき)で朝鮮半島に攻め込んだからなのだそうです。
一方、この出兵に際し、日本と朝鮮半島の海峡で戦った李舜臣は、まさにヒーローとされているそうです。
彼らの言い分によると、李舜臣の戦いによって、日本は海上を封鎖され、朝鮮半島への補給路を断たれた日本は、半島からの敗退を余儀なくされたからなのだそうです。
まあ、韓国人にとっては歴史はファンタジーですから、そう「思い込みたい」気持ちもわからないでもありません。けれど、事実関係はまるで異なります。
李舜臣についていえば、なるほど朝鮮の海将として文禄元(1592)年8月29日に釜山港を占領していた日本軍に戦いを挑んでいますが、あえなく敗退しています。
また、慶長3(1598)年)年11月18日の露梁海戦(ろりょうかいせん)では、明国と朝鮮の連合軍の指揮を執りながら、日本軍の圧倒的な戦力の前に、戦死しています。
李舜臣によって、日本が海上補給路を断たれたという事実は、どこにもないのです。
そもそも、秀吉の朝鮮出兵についても、誤解と偏見がまかりとおっています。
戦国時代や秀吉を描いた歴史小説においても、そもそも秀吉の朝鮮出兵が「なぜ行なわれたか」について、きちんと踏み込んで書いているものはたいへん少ない。
おおかたは、秀吉の朝鮮出兵は、
◆秀吉が耄碌していたために起こした戦いだった、
◆秀吉の成長主義がひき起した身勝手な朝鮮征服の戦いであった、
◆戦いを好む戦国武士団を朝鮮、支那に追い払い殺して数を減らすための戦いだった
などと、ほとんど意味不明の解説がなされているようです。
まさに、木を見て森を見ず、です。
そもそも、仮に秀吉が耄碌爺であったとしても、当時の日本は、江戸日本も含めて、各藩がそれぞれ独立した国家を営んでいたのです。
耄碌ジジイの世迷い事で、大枚をはたいて朝鮮までノコノコ出ていくおバカな大名は、全国どこにもいません。
秀吉の成長志向が招いたという解説にしても、信長から秀吉と続く体制は、農業重視というよりも流通指向がかなり強かった体制であり、領地がもらえなくても、それぞれの大名は、商業による貨幣経済によってかなりの富が蓄積できたわけです。
金持ち喧嘩せずとはよく言ったもので、食うに困らない、生活に困らない豊かな生活を満喫できているのに、あえて、戦争など、誰も好き好んで行うものではありません。
では、なぜ秀吉は朝鮮出兵を行ない、世の大名たちも、これに追従したのかが問題となります。
実は、このことを考えるには、日本国内だけの事情をいくら考えても答えはでてきません。
そもそもなぜ、秀吉の時代に日本が一国にまとまったのか、そして朝鮮出兵をするに至った背景には何があったのか。
実はそこには、当時のアジア情勢という国際政治が大きく影響していたのです。
そしてそういう国の内外の事情を理解したからこそ、東北の大名たちまでもが、秀吉の朝鮮出兵に前向きに協力し、兵を出しているのです。
そもそも、二度にわたる秀吉の朝鮮出兵(文禄、慶長の役)というのは、16世紀における東アジアでの最大の戦いです。
日本からは約16万の大軍が朝鮮半島に送り込まれたし、朝鮮と明国の連合軍は、戦力25万の大軍です。
天下分け目の戦いといわれる関ヶ原の戦いにしても、東軍7万、西軍8万の激突ですから、いかに朝鮮出兵の規模が大きかったかがわかります。
この時代、世界全体を見渡せば、まさにスペイン国王が、世界を制した時代です。
世界の8割は、スペインの植民地となっていました。
そのスペインは、東亜地域では、ルソン(いまのフィリピン)に、東アジア地域全体の戦略統合本郡である総督府を置いていました。
そして信長、秀吉の時代、スペインによってまだ征服されていなかったのは、東亜では、明国と日本だけとなっていたのです。
そのスペインが、日本に最初にやってきたのは、天文18(1549)年のことです。
日本では、宣教師のフランシスコザビエルの来日として歴史に記録されています。
当時のスペイン宣教師というのは、表向きの役割はキリスト教の伝道ですが、裏では立派な軍事組織を持つ、僧兵軍団です。
実際のキリスト教の伝導とは異なり、それぞれの国民に受け入れられやすそうな調子の良いことを言って改宗させ、頃合いを見計らって、軍隊を送り込み、人民の殺戮や財宝の強奪、ひいては植民地占領をしていたのです。
日本が内乱に明け暮れていた時代の戦国大名たちは、最初は、宣教師たちについても、ただのものめずらしさしかありません。
ザビエルは、あちこちの大名に招かれ、大名たちもキリスト教の信者になったりもして、伝道師たちを快く受け入れていました。
ところが唯一、日本が他の国々と違っていたのは、彼らが持ち込んだ鉄砲という武器を、日本人はまたたくまにコピーし、それを量産してしまったことです。
気がつけば、日本の鉄砲所持数は、なんと、世界全体の半数を占める莫大な数になってしまいました。
宣教師たちも、さすがにこれには驚いた様子で、イエズス会のドン・ロドリゴ、フランシスコ会のフライ・ルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った上書にも、このことについては明確な記述があります。
~~~~~~~~
スペイン国王陛下、陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入
困難です。
よって福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するように仕向けるしかありません。
~~~~~~~~
住民数を言うなら、南米やインドの方がはるかに住民数が多いわけで、城塞の堅固さも、日本の平城は、アジア、ヨーロッパの城塞には敵いません。
にもかかわらず、彼らが「日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難」と書いているのは、単純に、鉄砲の数が圧倒的で、とても軍事力で日本には敵わない、ということです。
だから、「福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するように仕向ける」というのです。
こうしてスペインは、日本での布教活動に、まず注力していきます。
一方、あたりまえのことですが、スペインの狙いは日本だけではありません。
お隣の明国も、スペインは植民地化を狙っています。
こちらは、鉄砲をコピーするような能力はなく、単に人海戦術、つまり人の数が多いだけです。
ただ、大陸は広く、その調略には手間がかかる。
ちなみに当時のスペインにとって、朝鮮半島は対象外です。
朝鮮半島は、明国の支配下だったわけですから、明が落ちれば朝鮮半島は、自動的に手に入る。
それだけのことです。
さてそのスペインですが、明国を攻略するにあたり、当時、世界最大の武力(火力)を持っていた日本に、一緒に明国を奪わないか、と持ちかけています。
ところが日本には、まるでそんなことに関心がない。
そもそも信長、秀吉と続く戦国の戦いは、日本国内の戦国の世をいかに終わらせ、国内に治安を回復するかにあったのです。
信長は、比叡山を攻めたり、本願寺を攻めたりと、まるで第六天の魔王であるかのように描かれることが多いですが、実際には、次々と行なった信長の戦いの目的は、一日も早く戦乱の世を終わらせることに尽きた。
だからこそ、多くの人々が信長に従ったということが、最近になって発見された各種文書から、次第にあきらかにされてきています。
このことは秀吉も同様で、なぜ秀吉が人気があったかといえば、百姓の代表だから百姓の気持ちがわかる。
戦乱によって農地が荒されることを多くの民衆が嫌っていることを、ちゃんとわかってくれている人物だったからこそ、秀吉人気はあったのです。
要するに、当時の日本の施政者にとっては、日本国内統一と治安の回復こそが政治使命だったわけで、わざわざ明まで出かけて行く理由はひとつもない。
ところが、日本が秀吉によって統一され、なんとかその治安と太平を回復すると、今度は、対明国への対策が大きな課題となってきます。
どういうことかというと、スペインが日本に攻めて来たとしても、彼らは海を渡ってやってきます。
スペインとの直接対決ならば、海を渡ってやって来るスペイン人は、数のうえからいえば少数であり、火力、武力ともに日本の方が圧倒的に上位です。
従って、日本がスペインに攻略される心配はまるでない。
ところが、スペインが明国を植民地として支配下におさめると、様子が違ってきます。
いかに数多くの鉄砲を日本が持っているとはいえ、スペインに支配された明国兵が、数の力にモノを言わせて日本に攻め込んできたら、これはたいへんなことになる。
元寇の再来です。
これは驚異です。
となれば、その驚異を取り除くには、スペインよりも先に明国を日本の支配下に置くしかない。
火力、武力に優れた日本には、それは十分可能なことだし、万一明国まで攻め込むことができなかったとしても、地政学的に朝鮮半島を日本と明の緩衝地帯としておくことで、日本への侵入、侵略を防ぐことができる。
このことは、ロシアの南下政策を防ぐために、明治日本が行なった政策と、当時の状況が酷似していることをあらわします。
さらにいえば、秀吉は、すでにこの時点でスペインの誇る無敵艦隊が、英国との戦争に破れスペイン自体が海軍力を大幅に低下させていることを知っています。
ですから、スペインが海軍力で日本と戦端を交える可能性は、まずありません。
一方、長く続く戦乱の世を終わらせようとする秀吉は、全国で刀狩りを実施し、日本の庶民から武力を奪っています。
これはつまり、日本に太平の世を築くために必要なことであったわけですが、同時にこのことは、もし日本が他国侵逼の難にあったときは、日本の戦力を大きく削ぐことにもつながってしまうのです。
ならば、武力がまだ豊富なうちに、余剰戦力を用いて、朝鮮出兵を行ない、朝鮮から明国までを日本の支配下に置いてしまうこと。
これは我が国の安全保障上、必要なこと、であったわけです。
こうして秀吉は、文禄の役(1592~1593)、慶長の役(1597~1598)と二度にわたる朝鮮出兵を行なうのですが、同時に秀吉は、スペインとも果敢な政治的交渉を行なっています。
何をしたかというと、スペインに対して、日本に臣下としての礼をとれ!と申し出たのです。
最初にこれを行なったのが、文禄の役に先立つ1年前、天正18(1591)年9月のことです。
秀吉はスペインの東亜地域の拠点であるルソン(フィリピン)総督府に、原田孫七郎を派遣し、「スペインのルソン総督府は、日本に入貢せよ」との国書を手渡します。
世界を制する大帝国のスペインに対し、真正面から堂々と「頭を下げて臣下の礼をとって入貢せよ」などとやったのは、おそらく、世界広しといえども、日本くらいなものです。
まさに、気宇壮大というべきです。
対するスペイン総督府にしてみると、これはきわめて腹立たしいことだけれど、すでに無敵艦隊が消滅し、海軍力を大幅に低下させている現状にあっては、日本に対して報復的処置をとれるだけの力はありません。
悔しいけれど、放置するしかない。
すると秀吉は、その翌年に、朝鮮出兵を開始するのです。
驚いたのはルソンのスペイン総督府です。
日本が、朝鮮、明国を征すれば、その国力たるや、東亜最大の政治的、軍事的圧力となることは目に見えています。
しかも、海を渡った朝鮮出兵ということは、いつ、ルソン島のスペイン総督府に日本が攻めて来てもおかしくない。
慌てたスペイン総督府は、当時ルソンに住んでいた日本人
ちを、マニラ市内のディオラ地区に、集団で強制移住させています。
これがマニラの日本人町の始まりです。
さらにスペイン総督府は、同年7月には、ドミニコ会士の宣教師、フアン・コポスを日本に派遣し、秀吉に友好関係を樹立したいとする書信を届けています。
このとき、膨大な贈物も持参している。
いかにスペインが日本をおそれていたか、ということです。
けれど秀吉は、そんな贈り物くらいで騙されません。
重ねてスペインの日本に対する入貢の催促の書簡を手渡します。
その内容がすさまじいです。
スペイン国王は、日本と友好関係を打ち立て、マニラにあるスペイン総督府は、日本に臣下としての礼をとれ、というのです。
そして、それがお嫌なら、日本はマニラに攻めこむぞ、このことをスペイン国王にちゃんと伝えろ、というのです。
この秀吉の書簡を受け取ったコポスは、帰路、遭難します。
本当に海難事故で遭難したのか、返書の内容が100%スペイン国王の激怒を買うことがわかって、故意に遭難したことにしたのかは、いまとなっては不明です。
けれどおそらくこれは後者ではないかと私は見ています。
さて、コポスの遭難のおかげで、秀吉の書簡は、スペイン総督府には届かなかったわけですが、当然のことながら、スペイン総督府からの返書もありません。
けれど、返書がないからと、放置するほど甘い秀吉ではありません。
秀吉は、10月には、原田喜右衛門をマニラに派遣し、確実に書簡を総督府に届けさせたのです。
文禄2(1592)年4月、原田喜右衛門は、マニラに到着しました。
そしてこのとき、たまたま在マニラの支那人約2000人(明国から派遣された正規兵だったといわれています)が一斉蜂起して、スペインの総督府を襲ったのです。
スペイン兵は、応戦しますが、多勢に無勢です。
これを見た原田喜右衛門は、手勢を率いてスペイン側に加勢し、またたく間に支那兵を殲滅してしまいます。
日本強し。
原田喜右衛門らの圧倒的な強さを目の当たりにしたスペインのゴメス総督は、日本の強さに恐怖します。
けれど、ゴメスは、スペイン大帝国から派遣されている総督です。
世界を制する大帝国王に、日本に臣下としての礼をとらせるなど、とてもじゃないが報告できることではありません。
ゴメスは、なんとか時間をかせごうとします。
そして、翌文禄3(1594)年4月に、新たにフランシスコ会士のペドロ・バウチスタ・ベラスケスを特使に任命し、日本派遣します。
要するに、特使の派遣を繰り返す中で、少しでも時間稼ぎをしようしたのです。
名護屋でペドロと会見した秀吉の前で、ペドロは、スペイン王国が、いまや世界を制する大帝国であること、日本とはあくまでも「対等な」関係を築きたいと申し述べます。
普通に考えれば、世界を制する大帝国のスペイン国王が、日本という東洋の小国と「対等な関係」というだけでも、ものすごい譲歩です。
けれど、秀吉は聞く耳を持たない。
ペドロに対し、重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢を要請します。
なぜ秀吉は、ここまでスペインに対して強硬だったのでしょうか。
理由があります。
第一に、国際関係において、対等な関係というものは存在しないのです。
この時代における国際関係というのは、やるかやられるか、つまり上下の関係しかありません。
たとえ日本が小国であったとしても、大帝国のスペインに日本を攻めさせないためには、日本が圧倒的な強国であることを、思い知らせるしかなかったのです。
第二に、もし、秀吉が中途半端に「対等な関係」の構築を図ろうとするならば、スペインは当然のごとく平和特使と称して宣教師を日本に派遣します。
そして宣教師たちは、日本の内部から切り崩し工作(まさにいま支那や韓国によって行なわれている日本解体工作と同じ)を行なう。
現に、世界のあらゆる国家が、その方法でスペインの植民地にされていたのです。
ですから、日本がスペインの驚異から逃れる道は、ただひとつ。
あくまでスペインに対して、強硬な姿勢を崩さないこと。
これしかなかったのです。
第三に、秀吉が目指したのは、あくまでも「戦のない世の中」であったということです。
並みいる敵は、圧倒的な武力で制圧する。
その上で、武力そのものも奪ってしまう。
つまり「刀狩り」を行い、そうすることで秀吉は、「戦のない世の中」を実現しようとしています。
けれど、同時に刀狩りをして日本人から武力を奪うことは、一方において日本人を弱化させることを意味します。
ならば、日本国内に武器を持たない平和な国を実現するためには、国際的な武力衝突の危険を日本から出来る限り遠ざける必要がある。
名護屋におけるペドロ・バウチスタ・ベラスケスとの会見も、平行線となったスペインのゴメス提督は、日本との軟弱な外交姿勢を咎められ、スペイン国王によって更迭されてしまいます。
そして後任の提督としてやってきたのが、ルイス・ダスマリニャスです。
ルイス・ダスマリニャスは、アウグステイン・ロドリゲスを使者として日本に派遣し、回答の引き延ばしを図るとともに、日本の戦力を冷静に分析します。
そして、ゴメスの分析通り、もし日本とスペインが、東亜で正面から衝突すれば、むしろスペイン側に勝ち目がないことを知ります。
そこでルイスは、秀吉との直接交渉は避け、ひとり、またひとりと、宣教師を日本に派遣するという戦略をとる。
つまり、時間を稼ぎ、その間に、当初の戦略通り、日本に宣教をしていこうとしたのです。
文禄3(1594)年には、ルイス提督の意向を受けて、ヘロニモ・デ・ヘスス以下のフランシスコ会修道士4人が、日本に派遣され、日本での布教を再開しました。
秀吉も、これは認めています。
ところが、慶長元(1596)年のことです。
スペインの貨物船、サン・フェリーペ号が、荷物を満載したまま遭難し、土佐の浦戸に漂着したのです。
救助した船員たちを、秀吉の五奉行の一人である増田長盛が取り調べにあたりました。
そこで驚くべき事実があきらかになります。
なんとサン・フェリーペ号の水先案内人が、増田長盛に世界地図を見せ、
「スペイン国王は、まず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると、次は軍隊を送り
、信者に内応させて、その伝道地の国土を征服するから、世界中にわたって領土を占領できたのだ」と証言したのです。
報告を受けた秀吉は、即座にキリシタン26人を逮捕しました。
そして彼らを長崎に送りました。
キリシタンを続けたいなら、外国へ出て行け。
日本に残りたいなら、改宗しろ、というわけです。
迷う26名に対し、長崎のイエズス会は、この26名の死罪を長崎奉行に申し出ます。
磷付にして、晒してほしいと、申し入れたのです。
イエスズ会の腹はこうです。
26名の信者を、イエスの十字架になぞらえて見せ物にし、間違いなく天国に行くことができたと宣伝する。
こうすることで、キリスト教徒としての栄光に輝く姿を印象づけ、侵攻による団結心をたかめる。
まあ、このあたりの話は、本題からかなりそれるので、また今度詳しく書くこととして、要するに秀吉の朝鮮出兵は、スペインによる東洋の支配に対して、統一国家をやっと形成した日本が、いかに国を護るかを考えた上での決断であった、ということです。
このことは、単に日本や朝鮮の国内事情だけを見ても、まったくわかりません。
当時の世界情勢、東亜諸国の情勢をみなければ、秀吉がなぜ朝鮮出兵を決意したのか、そして多くの大名たちが、なぜその秀吉に従い、兵を出し、勇猛果敢に他国に出て戦ったのかが、理解できない。
もっというなら、日本が明治という統一国家を形成してから朝鮮半島を領有するまでの動きと、秀吉の朝鮮出兵当時の世界の動きは、スペインがロシアと変わっただけで、まったく同じことが歴史上、繰り返された、ということなのです。
もし、秀吉が朝鮮出兵を行なわず、日本の国力をスペインに見せつけなければ、どうなっていたか。
スペインは、当然のことながら、明国を植民地としての支配下に置いたことでしょうし、当然のことながら、朝鮮半島も、スペインの支配地となったことでしょう。
そしてスペインの支配地となることが、いかなる意味を持つのか。
そのことは、南米の様子が、見事にまで現代に伝えています。
いま、南米に南米人の純粋種は存在しません。
白人種との混血種だけです。
アルゼンチンやウルグアイでは、先住民族がほぼ完ぺきに抹殺されてしまいました。このエリアの女性たちは、手当たりしだい強姦されたあげく、子を産む前に殺戮されたのです。ですから、いま住んでいるのは、ほぼ白人種です。
ブラジル、エクアドル、ペルー、ボリビアは、全員が、先住民族との混血です。
純血腫はいません。
強姦され、放置され、子を産み、いまに至っています。
日本も支那も朝鮮も、それぞれに純血種を保ちながら、いまに至っています。
なぜそうなったかといえば、秀吉たちが、スペインと真っ向から戦う姿勢を明確に見せたためです。
ちなみに、慶長の役は、秀吉の死去にともなって、中止となり、日本は朝鮮半島から撤収しました。
だから、これは秀吉の気まぐれでおきた戦争だというのは、大きな間違いです。
半島に出兵した大名たちは、それぞれに真剣に戦ったのです。
ではなぜ日本が撤収したか。
こたえは簡単です。
スペイン自体が、英国やオランダに押されて、国力を低下させ、もはや東亜に構っていられなくなったのです。
わたしたちは、いま、スペインという世界最強の大帝国に対し、一歩も退かず、むしろ臣従せよと迫った秀吉の壮大な気宇と誇りを、いまこそ見習うべきときにきているのではないでしょうか。
9/16 「朝鮮出兵の真意」 ~’10.02.27 黒田裕樹の歴史講座
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このURLの中に日本人奴隷の貿易があります。
秀吉 関連ツイート
どんな結果になっても、俺は君の応援にこたえられるよう、精一杯戦う覚悟だよ。
君も、また俺を応援してくれる?……ありがとう。
じゃあ、約束。
俺以外のことは、決して見ないで?……ね?」
#ラブカレアワー…
そして、その掟に少しでもそむく者がでてきたら、決してえこひいきなく道理にかなっていること道理にかなっていないことをさばき、たとえそれが兄弟や親族であろうとも、罪のある者は処罰せねばならない。
by 豊臣秀吉
勝「……」
左「二人してなにやってんの…ってお絵かき?」
勝「違う。原稿だ」
半「これ、ひでよし。これ、みつなりくん。これはけいじくん。」
左「秀吉さまだけキラキラしてね?」
勝「エフェクトだ」
半「えふぇくと」