全通 転んでも泣かない


し、沢山頑張って頂いた、振付、音響、証明、制作、舞台監督、映像、演助、衣装。担当してくださった方々本当にありがとうございました!

全通 転んでも泣かない
あまりに基本的な全通の4つのルール
今一番誰とお話したい?
▼本日限定!ブログスタンプ
(「今日は何の日~毎日が記念日~」等の記述を引用しています。)
本日は苗字の日です。明治3年、戸籍整理のため太政官布告により平民も苗字を持つことが許されたが、なかなか苗字を持とうとしなかったため明治8年2月13日に全国民が姓を名乗ることを義務化。
- ¥596
- Amazon.co.jp
本日は独立記念日(セントクリストファー・ネイビス)です。1983年のこの日、中米の島国・セントクリストファー・ネイビスがイギリスから独立。
本日は子規忌です。正岡子規の1867年の忌日。
そのほかの出来事
810年 弘仁に改元。824年に天長に改元
899年 群盗横行の為、相模国足柄坂・上野国碓氷坂に関を設置(神奈川県・群馬県)
1235年 地震頻発の為嘉禎に改元。1238年に暦仁に改元
1324年 正中の変。六波羅探題が兵を遣し、鎌倉幕府討滅を企てた後醍醐天皇方の土岐頼兼・多治見國長らを殺害し日野資朝・俊基を捕える。
1648年 パスカルと義兄ペリエが南仏ピュイドドーム山頂での水銀柱の実験により大気圧の存在を証明。
1783年 ベルサイユ宮殿で初の気球の公開実験。
1868年 スペイン革命で廃位されたイザベル2世亡命
1870年 イタリア軍がローマ教皇領占領
1881年 「監獄則」制定
1885年 神田に英吉利法律学校(現中央大学)開校。
1888年 ベルギーのスパで世界初の美人コンテスト「コンクール・ド・ボーテ」が開催
1899年 ドイツのスパイ容疑で逮捕されたドレフュス仏大尉特赦
1912年 福井県南条郡武生町(現越前市)で大火。1700戸焼失。
1912年 中越鉄道島尾-氷見間(現JR氷見線)開業。城端-高岡-氷見間の中越鉄道全通(富山県)。
1913年 文部省が「医師試験規則」「歯科医師試験規則」「薬剤師試験規則」公布
1931年 日本初の臨時ニュース放送。前日の満洲事変の第一報。
1941年 第二次大戦で独軍がソ連ウクライナ共和国の首都キエフ占領
1941年 統制で劇映画制作会社を松竹・東宝・大映の三社に統合
1942年 北九州の私鉄3社が合併し、西日本鉄道設立(福岡県等)。
1945年 GHQが「プレスコード(新聞紙規定)」を発令。言論統制検閲が始まる。
1949年 政治的行為に関する人事院規則を制定し即日施行。公務員の政治活動を制限。
1949年 小津安二郎監督の映画「晩春」封切り。
1955年 アルゼンチンで軍部が叛乱。軍事政権を樹立。ペロン大統領は辞任しスペインへ亡命。
1955年 原水爆禁止日本協議会結成
1957年 アメリカがラスベガス附近で世界初の地下核実験
1958年 アルジェリアで民族解放戦線が臨時政府樹立を宣言
1958年 長嶋茂雄のホームランが一塁を踏まなかった為取り消し(同年、本塁打は30のはずが29に)。
1959年 静岡県御殿場市に青年の家第一号「国立青年の家」できる。
1962年 静岡鉄道秋葉線新袋井-遠州森町間と可睡口-可睡間廃止(静岡県)
1964年 築地署と警視庁少年課が銀座・みゆき通りにたむろする「みゆき族」の少年少女約百人を一斉補導
1972年 北陸鉄道石川線白菊町-野町間廃止(石川県)
1974年 西ドイツとフィンランドが30年ぶり国交恢復
1978年 埼玉県行田市の稲荷山古墳で出土した鉄剣の文字115文字の解読成功
1982年 IBMの研究者Scott Fahlman氏が世界で初めて顔文字「:-)」を使用
1984年 中核派系テロリストにより約520平方m焼失。被害額は約10億円(自由民主党本部放火襲撃事件)。
1985年 メキシコ西海岸でM8.1の大地震。メキシコシティーで死者8千人。
1988年 昭和天皇の容態が急変し深夜に大量吐血。以後各地で祭や催事自粛
1996年 住友商事がロンドン金属取引で26億ドルの過去最大の損失
1998年 スカイマークエアラインズ(現スカイマーク)初就航。
2004年 MotoGP日本グランプリで玉田誠が優勝。
2005年 六カ国協議において北朝鮮がすべての核放棄受諾。
2006年 タイで軍事クーデター。
2008年 民主党小沢一郎代表と国民新党綿貫民輔代表が電話で会談し、両党の合併を白紙に戻すことで合意。
2012年 アメリカ株式市場でアップル株が1株701.91ドルとなり時価総額は歴代最高額である約6580億ドル(約52兆円)を記録。
2015年 参院本会議において安全保障関連法案(集団的自衛権の限定的な行使容認を含む安全保障関連法案)の採決が行われ、賛成多数により可決成立。
2015年 ラグビー日本代表は2015年ワールドカップイングランド大会、1次リーグB組初戦で過去2回の優勝を誇る強豪・南アフリカに34-32で逆転勝ち。歴史的勝利。
就職する前に知っておくべき全通のこと
次々と滑り込んできては、わずか10分ほどの短い折り返し時間で、慌ただしく乗客を乗り降りさせ、車内清掃を行い、東北や上信越方面へ向かう数多くの人生とともに、幾多の華やかな高速列車が颯爽と旅立っていく。
頭上を錯綜する案内放送が、耳に痛いくらいだった。
平成25年6月の週末を迎えた午前8時すぎ、初夏のみちのくへの旅立ちにふさわしい、濃緑色を基調にした流麗な列車がしずしずと入線してきた。
今の新幹線車両は、走行中の空気抵抗を和らげ、特にトンネル内での風圧の急激な変化による「トンネルどん」を防ぐため、ノーズが鳥の嘴のように長くなる傾向にあるけれども、他の車両と比べても一段と長く伸びた扁平な先頭部分が人目をひく。
待ち構えていた子供たちが、一斉にカメラを構える。
東京駅を8時20分に発車する、「はやぶさ」5号新青森行きの入線だった。
JR東日本は「世界一の鉄道システムの構築」という構想を平成12年に発表、新幹線を時速360kmで営業運転する計画を明らかにした。
「FASTEC 360」という高速試験電車で各種試験を行った結果、環境対策やコスト・パフォーマンスを考慮すれば最高時速320kmが妥当という結論が得られ、E5系が開発されたという。
営業運転開始は、東北新幹線が青森まで延伸した3ヶ月後の平成23年3月5日だった。
宇都宮と盛岡の間で時速300km運転を行い、その他の区間でも時速275kmで運転する速達列車「はやぶさ」での運用だった。
しかし、直後の3月11日の東日本大震災で東北新幹線は不通となり、全線が再開通した4月28日からも暫定ダイヤのため300km運転はお預けとなっていた。
懸命の復旧工事が実って、E5系「はやぶさ」が300km運転を再開したのは、同年9月23日のことである。
今や最高速度は320kmに引き上げられ、「はやぶさ」の最速列車は、東京-新青森間674.9kmを所要2時間59分で走破する見事な俊足ぶりを発揮している。
だが、所要3時間を切る速達列車の本数は決して多くない。
実際には秋田新幹線「こまち」を併結して走る「はやぶさ」が多く、盛岡での分割・併結作業のために所要時間が3時間を越えてしまう列車がほとんどだった。
八戸までは何回か乗ったことがあったけれども、僕は、この日が、新青森まで全通した東北新幹線の初体験だった。
どうせ乗るならば、青森まで3時間以内というスピード感を体感できる最速列車に乗りたくて、「こまち」を併結しない「はやぶさ」5号を選んだのだった。
この年の3月には、「のぞみ」と「みずほ」を乗り継いで、東京から鹿児島へわずか7時間という躍動感溢れる旅を楽しんだばかりである()。
九州新幹線が全通したのも、平成23年3月だった。
青森から鹿児島までが新幹線で結ばれた、という華やかな話題が一瞬日本を沸かせたけれども、直後に震災が発生し、数々の悲惨なニュースの陰に隠れてしまった。
震災の後に、東北へ足を踏み入れるのは初めてだった。
暇や用事がなかったと言えばそれまでだが、北へ旅行することが、何となく躊躇われたのも事実である。
どんな車窓が待っているのだろう、と少しばかり不安な思いを抱く僕を乗せて、「はやぶさ」は定刻に動き出した。
営業列車として世界最速の列車とはいえ、大宮までは旅の序章である。
試合本番前の足慣らしのように、「はやぶさ」は時速110km以内でゆっくりと走る。
林立するビル街や派手な看板が線路際に迫る秋葉原の手前から、高度を下げて地下へ潜っていく。
東北新幹線東京-上野間の地下トンネル工事中に、御徒町駅前の道路が陥没する事故があったことを思い出す。
人影がまばらな上野駅のホームを通過すれば、今度は飛行機の離陸にように高架へ駆け上り、ぎっしりと建物が隙間なく地表を覆い尽くす街並みが、車窓いっぱいに広がる。
荒川橋梁を渡れば、東京とはしばしの別れである。
その後も、高層マンションやオフィスビルの隙間を縫うように、右に左に身をくねらせながら、速度を抑えた走りが続く。
曲線がきつく、窓から列車の先端が見える箇所もある。
この区間では、どの新幹線に乗っても、早く全開で走り出したくて、列車がうずうずと武者震いしているような感触がある。
逸る列車の手綱を、運転手さんが懸命に絞っているかのように感じる。
それは、乗っている僕の願望でもあるのだろう。
大宮を8時44分に発車すると、「はやぶさ」は獲物を狙って解き放たれた猛禽のように、みるみる速度を上げていく。
1時間10分後に到着する仙台までノンストップのダイヤで、いよいよE5系の本領発揮である。
宇都宮から先では時速320km、僕にとって未体験の最高速度での走りも味わえるはずだった。
車窓には茫漠とした北関東の田園地帯が広がっている。
線路の敷地に目を凝らせば、後方へ跳び去っていく枕木や防音壁、架線を支える支柱などの目まぐるしさに、自分が猛烈なスピードで運ばれていることがわかるのだけれど、遠方に視線を転じれば、点在する建物や緑の田園の流れはあくまで悠然としていた。
天候は快晴だった。
まばゆい陽の光が、光景の全てを黄金色に輝かせながら跳ね回っている。
路盤と車両がしっかりしているのか、揺れはほとんど感じられず、乗り心地はとても滑らかだった。
いつ時速320kmを出していたのか判然としないほどである。
東海道山陽新幹線の「のぞみ」や「みずほ」の最高速度では、細かな振動が伝わってきて、いかにも限界いっぱいで一生懸命走っています、という感触があったけれど、「はやぶさ」の走りにはまだ余裕が感じられた。
僕が乗っているのは先頭車両の10号車で、E5系で初めて登場した、グランクラスの右側最前列だった。
わずか3時間とはいえ、奮発して、グリーン車よりも豪華で高額な、日本の鉄道における最上級車両の客となったわけである。
左側が2列席、僕の乗る右側は1列の独立席で、電動のリクライニングを倒し、フットレストを持ち上げれば、周りを気にすることなく思う存分に身体を伸ばしてくつろぐことが出来る。
乗り慣れた風の何気ない顔つきでを装っていたつもりではあるが、この席で青森まで行けるのだから、内心は嬉しくてしょうがない。
女性のアテンダントが、にこやかにおしぼりを配りながら各座席を回り、
続いて軽食がテーブルに置かれた。
もちろん無料で、航空機のファーストクラス並みのサービスである。
そのメニューは以下の通りだった。
青森林檎入り焼売
筍の木の芽味噌焼き
蕗の薹天ぷら
分葱 赤紫蘇煮ソース
笹蒲鉾
慈姑(くわい)揚げ煮
帆立うま煮
たらの芽お浸し
三色団子
五目御飯(桜海老素揚・飾り人参・小鳥長芋)
東北各地の名産を巧みに取り入れた食材で、1品ずつ味わいながら、美味しく平らげた。
「お飲み物はいかがですか」
とアテンダントに聞かれ、アイスコーヒーを頼んだが、これもサービスで、しかもお茶菓子付きだった。
東京から150km、那須塩原駅を吹き飛ばすような勢いで通過した「はやぶさ」は、初めてのトンネルをくぐる。
新幹線車両の数両分くらいの長さしかない、小ぢんまりとした丘も、容赦なく串刺しにしていたことが印象的だった。
それくらいよけてあげたらどうなのか、と可哀想に感じたほどであった。
速度を緩めずに走り抜けた新白河の駅で、僕はついに、久しぶりの東北地方に足を踏み入れた。
古の時代から、白河の関としてみちのくの玄関であり続けた地であり、平行する東北本線の白河駅付近には「ここよりみちのく」という河北新報の看板が立てられている。
「はやぶさ」5号は、郡山、福島の街並みも通過していく。
自然と背筋が伸びて、心が粛然とする。
2年前の震災の悲劇を、どうしても思い浮かべてしまうのだ。
あまりに甚大な被害であったからなのか、それとも行政の不手際なのか、2年が経過しても未だに復興は不充分であると聞く。
そして、解決の目途すら立たない原発事故。
被災地の方々の苦しみを思うと、心が痛む。
新幹線の車窓からも災害の爪痕が見えてしまうかもしれない、と思うと、怖いような気持ちにさせられる。
結論から言えば、そのような痕跡は皆無だった。
主な被災地は津波に襲われた太平洋岸であり、東北新幹線は遥かに内陸部を走っているのだから当たり前であるけれど、車窓から目にする家々はあくまで穏やかなたたずまいを保ち、田畑や山々の緑はどこまでも鮮やかで明るい。
高村光太郎の「智恵子抄」で「安達太良山の上に広がる青い空が、本当の空だと言ふ」と詠まれた、抜けるように澄んだ青空が眩しい。
初夏の東北の自然は、心の奥底まで染み入るように美しかった。
それでも、その裏側にあって見えないものにも、思いを馳せる必要があると思う。
右手に見える阿武隈の悠然とした山並みの向こうの浜通りで起きていることは、深刻としか言いようがない。
震災で一時不通にはなったものの、東北新幹線は真っ先に復旧が急がれた。
東北の大動脈であり、復興を促進するシンボルでもあった。
一方で、海岸沿いにあって津波でズタズタに寸断されたローカル線は、未だに復旧していない区間も少なくない。
復旧の順番が逆とは言わない。
けれども、東北新幹線と同程度の熱意で鉄路が復活しないのはなぜなのか。
経済的な理由?
ペイしないから?
利用者数が少ないから?
同じ鉄道でも、この格差は、被災地の復興に対する僕らの国の姿勢をそのまま象徴しているような気がしてならない。
東北の人々の忍耐は、いつまで続くのだろうか。
新幹線の車窓から被災地の実情を偲ぼうとしても、所詮それは、別世界でぬくぬくと快適に過ごしながらの他人事でしかないのかもしれない。
まして、グランクラスに乗って、そのようなことを幾ら深刻に考えても、全く説得力のない話と思われてもおかしくない。
ちょっぴり気分が沈みがちになった僕を乗せて、「はやぶさ」5号は瞬く間に福島県の中通りを走り抜け、定刻9時51分に仙台駅に滑り込んだ。
駅の手前で減速するあたりから車窓がざわざわと賑わい始める。
僕が最後にこの地を訪れた7年前と変わらぬたたずまいの、杜の都だった。
この日の僕の本当の目的地は、仙台である。
しかし、未乗の八戸-新青森間の延伸区間を、最速列車の豪華な座席で乗りつぶしたいという欲求を抑えることは出来なかった。
東北新幹線の力は偉大で、このまま新青森まで往復してきても、午後1時過ぎには仙台に戻って来られる。
青森の滞在時間はわずか20分ばかりという、マニア以外の人には誠に馬鹿馬鹿しい散財としか思えないだろうけれど。
発車後に広がった仙台郊外の水田地帯では、田植えも終わり青々とした稲が育ち始めて、あたかも緑色の絨毯を敷き詰めたようだった。
「はやぶさ」5号は、左を奥羽山脈、右を北上山地に挟まれながら、みちのくの懐深くに向けて、ひたすら走り込んでいく。
僕が初めて東北新幹線に乗ったのは、開業2年後の昭和59年で、この旅とちょうど同じ季節だった。
まだ大宮暫定開業の頃で、上野発の新幹線リレー号から乗り継ぐ必要があった。
ずんぐりした顔つきの200系車両の、東海道山陽新幹線とは一線を画した緑色のラインに心を踊らせた、盛岡までの1人旅である。
帰りは在来線で平泉や松島に立ち寄りながら南下し、仙台から再び新幹線に乗り込んだ。
当時の200系車両の座席はオレンジ色だった。
東海道山陽新幹線0系車両の、青の濃淡に塗られたリクライニングしない転換クロスシートと違って、リクライニングが可能となった代わりに、座席の向きが変えられなくなり、車室中央を境に座席が端の方を向いて固定されていた。
だから、東北新幹線では指定席には乗らなかった。
後方の座席を指定されたら、目的地までずっと後ろ向きに座っていなければならなかったからである。
リクライニング機能を備えて、座席を回転させられるシートが登場するのはまだ先の話で、200系新幹線だけの時代は乗る列車を遅らせて自由席に並んだのも、隔世の感がある。
それが、僕の東北初体験でもあった。
仙台を過ぎたあたりからの車窓に、遠くに来た、という旅情が湧いてきて
無性に嬉しくなったことを今でもありありと思い浮かべられる。
平成3年、東京-上野間開業。
平成14年、盛岡-八戸間開業。
そして、平成23年に鉄路は新青森へ伸び、著しく進化したE5系車両から眺めても、みちのくらしい優しげな表情の山河に何ら変わりはなかった。
東北新幹線の完成と車両の進化はめでたいことだけれども、卒業、就職、結婚など僕の人生を刻んでいった歳月は容赦なく流れ去り、30年が経ってしまったのか、と思う。
右手から北上川が寄り添い、緑の多いしっとりとした街並みが現れると、10時31分着の盛岡だった。
八戸延伸まで、長く東北新幹線の起終点だった駅である。
階段を駆け下りて、在来線ホームの青森行き特急列車に乗り継いだのも、今では懐かしい思い出である。
あの頃は盛岡まで新幹線でも3時間程度を要し、更に2時間が加わる青森は、本当に遠い最果ての街だった。
盛岡を出て間もなく、左手に雪を残して逞しい山容の岩手山が姿を現した。
その先は、奥深い山々が増え、トンネルも多くなる。
この区間だけは、山あいを縫って曲がりくねった線路をのんびりたどりながら、鄙びた車窓を存分に楽しめた在来線の方が恋しくなる。
暗転した窓ガラスに映るのは、物思いに沈んだ僕の顔だけだった。
木々の緑が心なしか色褪せて、季節が逆戻りしていく。
一昨年までの終着駅だった八戸駅を、「はやぶさ」5号は容赦なく通過した。
ここからが未乗の区間だが、全長2万6455mの日本一長い陸上トンネルである八甲田トンネルをはじめ、長大トンネルが断続するばかりで、少しばかり味気なくなる。
はるばる北国までやってきた、という感慨がこみ上げてきたのは、トンネルとトンネルの狭間のほんの一瞬だった。
東京ではとっくに散った、桜の花を残した木立ちが見えたのだ。
もちろん盛りは過ぎているのだろうけれど、少しくすんだ色合いでありながらも、周囲の木々の緑と対照をなしてまだ鮮やかさを保っている姿は、僕の瞼にはっきりと焼きついた。
旅の終わりはあっけなかった。
おそらく青森市街であろうと思われる、津軽平野の中の一塊の街並みを右手の彼方に遠望しながら、「はやぶさ」5号は、左へ左へと大きく曲線を描き、速度を落としていく。
定刻11時19分、途切れることなく流れ続けていた景色は、ホームの「新青森」の駅名表示板の前で動きを止めた。
アテンダントの一礼に見送られて乗降口を飛び出した僕は、東京との気温の差に、思わず身震いした。
振り返れば、E5系10号車の長く伸びた鼻先は、真っ直ぐに前方を見据えて、まだまだ先へ進みたそうだったけれど、現時点ではこの先に営業用の線路はない。
青函トンネルをくぐる北海道新幹線開通の日まで、ここが終着駅であり続ける。
2ヶ月前に訪れた鹿児島中央駅と違って、延伸の夢が残されている未完のターミナルとも言えるのだが、今の厳しい財政状況で、その夢が叶う日が来るのかどうか。
青函連絡船の港と直結していた青森駅とは異なり、ガラス張りの瀟洒な新青森駅舎は、あっけらかんと広い新開地のど真ん中で、最果てに来たことを思わせる風情は何もなかった。
新幹線ホームと直角に交差する在来線ホームに、函館行きの特急列車が待機しているのが、唯一の証と言える。
「はやぶさ」5号に乗ってきた人々はどこへ消えてしまったのか、人影も見えない。
数台のバスが休む駐車場の向こうに望む、雪を抱いて寒々と連なる八甲田連峰が、春まだ浅い北国の風土を感じさせた。
(25.5.20)
絶対に公開してはいけない全通



よく見ると、なんと、音符♪とバレリーナなのです
迷わずポチしましたよ〜

正絹の 全通のカジュアルな袋帯。
早く締めたいな





全通 関連ツイート
最近知ったばっかでニワカなんだけど、めっちゃカッコよくて鳥肌たちました…😭💓
𝕩𝕡
失敗💔
島村ポっさん🌸🍆💣
火野乃仁豚🍓@ デレ6th現地全通
さよならアンドロメダを聞く季節です。
P70
マキアート
わからぬ
Z倉抹茶P
JKL@ HYD
決闘者まさむね
#告白結果
https://t.co/qjRwehKH5E
安本「すごいチケ代だよぅ」
廣田「くじけちゃいそう…」
星名「諦めちゃダメ!」
松野「よし、全通だ!」
柏木「でも、お金払えなかったらどうしよう」
小林「だ、だ、だ、大丈夫だよ(;>_<;)」…